胡蝶の夢の猫

「ここが夢の中じゃないなんて誰が決めた?」

 猫はそう言ってするりと裏路地に入っていった。その言葉を投げかけられた女の子は一瞬きょとんとしたけれど、猫を追って路地に入っていく。路地は狭く、人が一人やっと通れるくらい、建物の隙間をコンクリートで乱暴に固めたような場所で、ごみ箱や配管やエアコンの室外機が立ちふさがっていた。女の子はバンプオブチキンのKを口ずさみながら様々な障害を乗り越えていくけれど、裏路地は大通りではなく、猫は斑模様だった。そんなこととはまるで関係なく、路地は延々と続いていた。遠くに微かに光が見え、開けた場所があるのがわかるけれど、どのくらい歩けばそこに辿り着くのかはわからない。長い長い路地だった。ときおり路地の幅をほとんど塞いでしまうような室外機があり、猫はひょいとしなやかに、女の子はいくらか苦労しながらも楽しそうに乗り越えていく。

 半時間ほど歩いて、猫も女の子もいくらか疲れた様子を見せてきたころ、女の子はそっと猫に手を伸ばした。捕まえようと思ったのか、追っかけているだけなのに退屈したのか、ただ単に触りたいと思ったのか、女の子自身にもよくわからない。けれど、猫はするりと女の子の手を躱す。めげずにまた女の子は手を伸ばす。躱す。走る。追いかける。室外機を乗り越える。飛び下りる。落下エネルギーを利用して前に進む。そういったことを何度も繰り返したのち、女の子はようやく猫のしっぽを触った。指先にふわりと柔らかな感触が残った。

 それが合図のように、猫のしっぽが分かれた。八つに。しゅるしゅると伸びていき、丸い檻のようになって女の子を囲む。隙間を埋めるようにいくつも枝分かれして、ついには女の子をしっぽの中に包んでしまう。斑色をした毛皮の卵の中に閉じ込められた。

 三十年ほどが経ったあるとき、女の子の妹が、勤めていた会社のビンゴ大会で天体望遠鏡を当てた。妹はバンプオブチキン天体観測を口ずさみながら、ある夜、月にレンズを合わせる。月は女の子がいなくなったときから斑模様になっていた。見た目も毛皮の印象になっていた。

 妹は姉のことを思い出しながら斑の月を楽しむ。そのうちにパリンと微かな音が響き、斑の卵が割れた。月の中にいた女の子が降りてくる。親方、空から女の子が……! とは誰も言わなかった。女の子はいなくなったときから年を取っておらず、その代わりのように、鳥の羽が生えていた。尻尾が八つに分かれていない、斑色をした猫を胸に抱いていた。

 妹は、ずっと年下になって羽が生えた姉をふわりと受け止める。ぎざぎざの半分になった月がゆっくりゆっくりと地平線の向こうに落ちていく。

「ここが夢の中じゃないなんて誰が決めた?」

 女の子は胸に抱いた猫にそう問いかける。尻尾が八つに分かれていない猫は、ただ「ニャー」とやる気なく鳴いただけだった。

御座とモデルと抹茶のアイス

 キャンバスに描き出される少女は幼く、虚空に目を向けていた。白い肌を部屋の空気に晒し、腰の辺りだけがシーツに隠されている。洋間に敷かれた御座にお尻をつけて、右足を立膝にして、両手を後ろに置いて身体を支えている。女性の丸みはまだ微かで、うっすらと脇腹が浮き出ており、すらりと伸ばされた腕、肘が反対方向に沿っていて、この年頃特有の曲線を描き出していた。

 少女の左の瞳は赤で、右の瞳は青だった。どちらも鮮やかすぎる色で、カラーコンタクトなのがわかる。肩に触れて背中の流れる髪は銀色で、部屋に差し込む陽の光を受けて煌めいている。その髪も鮮やかで艶やかで、ウィッグなのだろうという想像を働かせることができた。

 少女はゆっくりと呼吸する。ただじっとしているだけの仕事はいつも退屈で、独特の大変さもあり、身体の後ろに流れ込んだシーツを指先に絡めて愛撫して気を紛らわせる。こっそりと。虚空に向いた目は半分ほどしか開けておらず、それで少女は空想の中に遊びに行ける。

 短くした黒い髪、その毛先が触れる形のよい耳。押し倒すように身体を預けて、その耳と髪に指を這わせる。いじくって。いじめて。赤くなった頬に、にたりと笑みを浮かべて。そうして少女は猫が甘えるように自分の頬をすり寄せて。

 けれど現実の少女の表情は静かだ。指先と、呼吸の胸の上下しか動かない。

 頬が笑みを作らないようには、ほとんど意識せずにできる。目を伏せて、どこかふてくされているような表情。それが描き手の好みだった。

 

 

 下描きが終わって色を塗るとき。少女の表情は僅かにきしむ。

 描き手が絵筆をキャンバスの上に滑らせる。すると空想の絵筆が肌の上を這い始める。

 その感触はやわらかで心地よく、けれどぴりぴりとほんのちいさく痛んだ。絵筆が腕に。指先に。頬に。肩に。胸に。脇腹に。もうやめてほしいと願うし、ずっと続けてほしいとも願う。吐く息が少し熱い。何故熱いのだろうという自分への問いが答えられずに放っておかれる。自分の心臓の音が強く聞こえる。立膝にした足が震えそうになるのを抑える。身体を支えている腕に意識が向く。腕を折り曲げて、そのまま横たわったらどれだけ気持ちいいだろう。

 いま、モデルをしてる、と少女は思う。作り物の瞳。作り物の髪。作り物の表情。それらを描かれる。すみずみまで。きっと作り物の内側まで。作り物の絵筆で、空想の絵筆で、肌をずっと撫でられていく。やわらかで心地よく、ほんのちいさく痛い。それがモデルをしている時間なのだと少女は思う。

 ゆっくりと熱い息を吐く。それから部屋の熱くない空気を吸い込む。御座のあおいにおいがした。抹茶のアイスが食べたい。ふとそんな考えが浮かんで、少女は意識の中だけで微笑んだ。

 

 

 黒髪には少しくせがあった。少女は肩に届かない自分の髪に指を絡める。ウィッグの感触を指先が思い出す。それほど通りのよくない自分の髪に、ふうっとちいさな息を漏らした。目を落とすと服の色があった。フリルのついたキャミワンピース。何もない肌色を思い出し、なつかしいような気持ちになる。

「がんばってくれたね。ありがとう」

 そう労って、描き手は少女の頭を撫でた。少女は思う存分微笑みを浮かべる。黒い瞳を描き手に向けて、短くした髪と形のよい耳を捉える。顔の前まで手を上げてから、すとんとその手を降ろした。

 怪訝そうにする描き手に、少女の無意識が「ござ」と口走った。

「……ござ、ちょっとねころんでってもいい?」

 無邪気に、あるいは無邪気さを装った表情でそう聞いていた。本当の気持ちは少女自身にもわからずにいたけれど、「ござ」と言った瞬間に、御座に寝転ぶのが、いまとても重要なことのような気がした。

 一呼吸のあと、描き手が戸惑いを苦笑に込めて頷くと、少女は描き手の首に腕を回して抱きつく想像をしながら、さっきまでモデルをしていた場所に顔を向けた。無邪気に小走りする。御座に身体を横たえる。頬に御座の編み込みの感触。すうっと息を吸い込み、帰りに抹茶のアイスを買おうと決めた。

単眼さんとヘッドドレス

 デジカメを買ったのは、旅行に行ったときのためにだとか、日々の何かを撮るためにだとか、近所の野良猫を撮るためにだとか。それから単眼さんを撮るためにだとか。

 への字に結んだ口がかわいかった。憮然とした表情で、何も言わずに立ち尽くしている。白いひらひらのヘッドドレスが単眼さんの大きな目には似合っていた。それを言ってしまうと、単眼さんはもっと憮然とした表情をするのだろう。

 その表情が見たい気もしながら、わたしはデジカメをかまえる。ひらひらの袖口からすっとはみ出た単眼さんの右手が、胸の高さにまで上がって、またゆっくり降りていく。そうした仕草にわたしはつい、かわいいのに、と口の中でつぶやく。その口の動きを見ていたのか、単眼さんの目が睨みつけるように細まった。

 笑いかけたいのを我慢しながら、わたしは真面目な顔をしてデジカメのピントを合わせた。ぼんやりとした輪郭の単眼さんが次第にくっきりしてくる。わたしの口元は自然と笑みを作っていた。

 姉が昔、文化祭用に作ったというひらひらのメイド服があったので、単眼さんを呼んで着せ替え人形にしていた。単眼さんはもちろん嫌がったけれど、なだめすかして、拗ねてみたりすると、ようやく着てくれたのだった。写真を撮るのももちろん嫌がって、屁理屈の限りを尽くした末のジャンケン勝負をして、単眼さんのメイド服姿を写真に収める権利を得たのだ。

「……今回だけだからね」

 睨みつけるような目をデジカメのレンズに向けながら単眼さんは言う。わたしは頷いて、「笑って」と返した。

 けれども単眼さんは笑ってくれない。睨みつけるようなジト目と、引き結んだへの字口。ほんのりと赤い頬。髪に隠れた耳なんかも赤いかもしれない。機嫌の悪そうなメイドさん。自分の笑みが深くなるのがわかる。

 笑ってくれなくても全然かわいいので、「撮るよ」と告げてからシャッターを切った。ばしばし撮っていると、そのうちに単眼さんは頭に手をやってひらひらのヘッドドレスをもぎ取り、わたしのほうに投げつけた。けれども空気抵抗があって、わたしの足先にふわりと着地する。

 わたしは屈んで、足先のひらひらの布を拾い上げると、埃を払いながら単眼さんに近寄り、またそっと彼女の頭に被せた。単眼さんの髪を頬に感じながら、布についている二本の紐をきゅっと結ぶ。単眼さんはふいを突かれたようにじっとしていた。

 それからわたしは後ずさりして、距離を取ってからまたデジカメをかまえる。ふっと息を吐く音が聞こえた。

 単眼さんはようやく笑ってくれた。わたしはその呆れたような苦笑にデジカメを向けてシャッターを切った。