旅の記憶

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 瞼を触る。右手の薬指と小指を軽く折り曲げ、人差し指と中指をゆるく伸ばして、その指先で瞼をなぞっていく。左瞼、右瞼と滑らせて。片方ずつで目を瞑って。顔の横に持ってこられた指先は、細い楕円を描いてまた左瞼を上にとまった。彼女はそのまま目を開け、左の眼球を触る。指先がうっすらと涙で濡れた。

 濡れた指先を親指でこすりつつ右手を皿の形にし、左目のすぐ下に置いた。瞬きもせずに目を見開いていると、ぽとりとてのひらの上にまあるい球体が落ちた。球体は白地で、一部分が黒く丸く染まっている。瞳は夜闇のような深い色で、じっと見つめていると呑み込まれそうに感じるかもしれない。

 彼女の目の前にはセーラー服姿の少女が佇んでいる。百年前から同じ形のような、古くささと懐かしさを感じさせるセーラー服で、彼女の存在も同じように古そうだった。目を離した隙に、少女は一体の小さな人形に変化して彼女の足元に落ちている、そんな想像も現実になりそうな雰囲気があった。

「じゃあよろしく」

 彼女が眼球の乗った右手を差し出しながら言う。

「うん」

 少女は小さく頷き、彼女の右手の横に自分の右手を並べた。

 眼球は少女の手の上に落とされ、彼女がそれをぐいぐいと少女のてのひらに押しつけていく。果たして少女のてのひらには瞼が作られ、長く細い睫毛が生え揃い、彼女の左目は少女の手の中で動くことになった。

「お土産買ってきてね」

 そう言って彼女は中に何も入っていない左目を閉じ、少女は少しめんどくさそうにしながらも頷いた。

 

 電車を乗り継いで遠出をする。二人座席のシートの窓際に腰を降ろし、隣に黒い革の学生鞄を置いている。少女には旅をする趣味も、時間をかけて移動をする趣味もなかったが、年の離れた友人の頼みを聞くくらいの心の広さは持っていた。出不精で旅好きという、人間らしく矛盾した性質を持った友人。少女は思い起こして苦笑を浮かべる。すぐ横の窓にその苦笑を映し、それを自分の目から隠すようにして右手を置いた。右手の五つの指に窓の硬さと冷たさを味わわせ、てのひらは窓から少し離す。窓の外には山の緑が広がっていて、てのひらの目が眩しそうにする。

 少女は右手を窓につけたまま、左手で器用に学生鞄を漁り、カバーのついた文庫本を取り出した。膝の上で開ける。本は「小説家になろう」という小説投稿サイトから書籍になったもので、異世界の住人が日本の洋食屋の料理を味わうという内容だった。少女はそれに自分の目を落とし、読み進めながら、今日の晩御飯はエビフライにしようと決めた。

 

 目的地に到着するころには日はだいぶ傾いていた。宿を取ってもいいが、飛び込みで泊まれる宿があるのかどうかはわからなかった。どうしようなければ「隙間」に手を差し込んで、基盤ごと換えてしまうという裏ワザも少女には使える。もちろんそれは少女にしか使えない反則のようなやり方で、少女自身も情緒がないと感じるものだった。

 そうならないように少女は努力する。五回までなら努力する。四つ目に訪ね入った温泉宿で泊めてもらえることになり、少女の学生鞄に常備してある基盤は、今回は使わずにすんだのだった。あと一つ断られていたら基盤を換えることを少女は選択しており、ある意味での世界の危機はぎりぎりで回避されていた。

 少女は温泉に浸かったあと、宿の食事を断って定食屋を探した。エビフライ定食でお腹を満たすと、近くの川辺に向かってのんびりと歩き始める。その途中で、ドーンと空が大きな音を鳴らした。夜になりかけの群青色の空に、赤や青や黄色の光が混じる。花火だ。

 少女と同じように川辺に向かって歩いていた人たちが足を止めた。ある者はただ立ち尽くして空を見上げ、ある者は携帯用の端末を顔の前にまで持ち上げた。少女も立ち止まり、右手を空に向けて翳した。てのひらの目を花火に向ける。この旅の一番の目的を達したことに、少女は肩を下げるようにして息をついた。

 手を翳したまま少女はまたゆっくりと歩き始める。あとはお土産だなあ、と少女は胸の中で呟く。何がいいだろう。宿で売ってた八ッ橋っぽい何かがおいしそうだった。でもそれだとお土産を頼んできた彼女は満足しなさそうだ。我儘なことだと思いながら、少女は目の端で見つけた夜店でかき氷を買った。

 花火は夜空を彩り続けている。考えるのはあとでもいいか。少女はそう思い、花火を見ながらかき氷を使い捨て透明スプーンで掬い上げ、シャクリとする。それから思い出したように、また右手を夜空に翳した。