梅雨の風景

novelcluster.hatenablog.jp

こちらに参加します。

 

 

 昼に青く晴れていた空は薄灰色の雲をじわじわと生み出して、夕刻には雨を降らせる準備を終えていた。学校帰りの少女が高架下沿いの細い道に歩を進めつつ、あるとき、そっと自分の頬に手をやり、空を見上げた。すぐに大きな雨粒が彼女の袖口を掠め濡らした。雨粒は彼女のそばのアスファルで弾けて模様を作り、しばらくもしないうちに幾つもの模様がばちばちと音を立てて生まれ始めた。やがてそれらは無数に敷き詰められ、互いが互いの模様を打ち消し合い、結果としてアスファルトの色を濃いものにした。

 少女は髪や肩を濡らし、けれどそれ以上雨で服を重たくすることを避け、高架下のコンクリート壁に背中を預けてやり過ごすことにする。弾けた雨粒の欠片が彼女の膝やふくらはぎに涼やかさを与える。彼女の目に映るのは雨の膜に霞む薄灰色の空。時折、雨粒が作る線に目の焦点を合わせようとして失敗し、視界をぼやけさせ、長い瞬きをした。車の音に反応して首を傾けたり、鼻歌を歌い始めて歌詞が思い出せずに途中でハミングにしたり、湿った空気を吸い込んだり、それらを適当な割合で組み合わせ、繰り返したりして時間をつぶした。

 そうしているうちに雨音が次第に静まっていく。少女は「んっ」と鼻を鳴らして、預けていた背中を壁から離した。

生肉とツナ&たまごサンド

 昨晩のこと。コンビニに繋がれた犬を撫でたら涼しい手触りで、夜はまだ寒いなという、ちょっとしたエピソードを思い出した。血統証付きのような中型犬で、でも雑種だったかもしれない。撫でようと手を伸ばしても避けたりはせずに、けれど驚いた顔でわたしを見上げていた。尻尾を振ったりもせずに、ただただ驚いた顔で。
 今朝も肌寒かった。コンビニ前のベンチに座る女の子は、涼しそうなセーラー服で、世間話をするくらいの顔見知りで、右目が空洞で、顔にブラックジャックのような傷跡があって、たぶんもう心臓は動いていない。膝の上にパック入りの生肉を置いていた。豚の肩ロース切り落とし二百グラム。朝ご飯だろうか。
 コンビニに入ってわたしも朝ご飯を買い、出てから半秒ほど迷ったあと、彼女の前を通り過ぎ、彼女の右隣に座った。生肉をむぐむぐする彼女の横で、ツナ&たまごサンドを開ける。彼女はちらりとわたしのほうに空洞と左目を向け、うっすらと微笑んでからまた自分の朝ごはんに戻った。むぐむぐ。
 ツナ&たまごサンドを一口齧ってから、「食べる?」と差し出すと、彼女も「食べる?」と指先で摘まんだ生肉を目の高さに持ち上げた。肩ロースの向こうに薄暗い空洞が見えて、首筋や背筋がむずむずした。計算してやっているんだろうか。そうだとしてもそんな彼女が好ましくも思うので複雑なことだった。
「まだ寒いね」
「そう、みたいだね」
 生きる死体は生肉を飲み込みながらそう応える。話題の振り方が悪かった気がする。死体はきっと寒暖を感じにくいだろう。世間話にはまず天気の話。彼女に対してそんな常識は通じなかった。それはともかくこのあとどう繋げよう、いや別にただ朝ご飯食べてるだけでいいかな、さてと迷っていると、「でも」と彼女のほうが話を続けた。
「寒いと腐らなくていいよね」
「……生肉が?」
「身体が」
「肩ロースが?」
「ゾンビ少女が」
 夏にゾンビ少女はあまり見かけなかった。どこにいるのかというと、自宅の冷蔵庫の中だったり、駅ビルの冷凍施設だったり。以前、ちらっとその冷凍施設内を撮った映像を観たことがあった。youtubeで。白い霜に覆われたセーラー服やブレザーに身を包んだ少女たちが、雑魚寝のように広い施設の床に転がっていた。その様は見るからに冷凍マグロのようで、ああ、心底混ざりたい、と思うくらいには心ときめく光景だった。
 夏でもたまに青白い顔をした、首や太ももに縫い跡をつけたセーラー服姿の少女を外で見かけることもある。そういう子からは独特の香りがする。悪いにおいじゃなくて柑橘系の爽やかな香り。防腐剤入りのスキンケア用品は、最近はコンビニでも買える。ゾンビ少女とゾンビ少女萌えの人に優しい世界だ。素敵なのか何かが終わっているのか。
「そっか」
「夏は嫌いじゃないけど、腐らないのは重要ですな」
 落語家か。米朝師匠の顔が浮かんだ。
「まあ、そうですなあ」
「食べる?」
 生肉と、それを摘まむ指。血の気のない真っ白な指と、違う種類の白が混ざった綺麗なピンク色の肉。
「食べませんな」
 そう答えながら、わたしは彼女のほうに手を伸ばした。そっと髪に触れて、犬にそうしたように撫でてみる。やわらかく指を絡めてくしゃりとする。死体の髪は昨日撫でた中型犬よりも涼しかった。彼女は一瞬驚いた顔をしたものの、くすぐったそうに右目の空洞を細めた。



桜の木の下の世界

 

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上記の企画に参加させていただきます。去年書いたもの二編に、もう一遍追加して3300字程度。三人称と二人称で綴るという変則的な構成なのですが、よければ。

 

桜の木の下の少女

 桜の木の下に死体が埋まっていることは誰もが知っている。誰もが知っていて、誰もがそう思っていれば、その通りになることも知っている。
 死体はすでに骨になっている。雨と土と微生物がその身体を融かし、桜の木の根が彼女を吸い、ほんのりと赤い花を咲かせる換わりに、彼女自身は真っ白の綺麗な骨になる。
 もちろん埋まっているのだから、彼女は土で茶色く汚れているけれど、水流で汚れを落とし、磨くように拭いてあげれば、すぐにその美しさを取り戻す。
 白い制服を着た少女が桜並木を歩いている。風は冷たく、まだ桜の花は咲いていない。それでも少女は桜の木を眺めながら、ほんのりと赤い桜の花を想像しながら、ゆったりとした、古びたフィルム映像を思わせるような仕草で歩いている。
 髪が風で乱れて、けれど少女は乱れるままにしている。おそらくはしばらく前に結ばれていたであろうリボンを右手にゆるく巻きつけて、ほつれたようにたれ下がった端を揺らして遊ばせている。
 揺れるリボンには意思がある。そのことを誰もが知っているか、知らないかは、知らない。ともかくリボンは揺れながら、少女の髪に戻りたくも思うし、少女の首に巻きつきたくも思うし、はらりと落ちてそのまま置き去りにされたくも思う。
 リボンはある瞬間、少女の手から半ばだけ離れ、その端だけを地面に降ろし、地面と少女を繋げた。少女は立ち止まり、リボンの意思を見下ろす。リボンのすぐそばには桜の木の根があった。もちろん少女も桜の木の下に死体が埋まっていることは知っていた。
 少女はしゃがみ込んで、地面を指でこすった。数度こすって、今度は爪を立てた。
 地面を掘る。
 少女には地面を掘り起こす技術も荒ぶる才能もないので、爪の間には土が入り込み、そのうち数枚かの爪には血が滲んだ。
 やがて汚れた白い骨に、赤い指が触れた。リボンはちょうど彼女の頭蓋骨が埋まっていたところを指し示していた。少女の口元が綻び、また少し爪に血を滲ませて、彼女の頭蓋骨が掘り起こされる。
 少女は立ち上がり、頭蓋骨を胸に抱いた。白い制服が、茶色と赤に汚れた。
 リボンは少女から完全に離れ、頭蓋骨が埋まっていた穴に落ちていた。そのときのリボンは揺れてはおらず、そこに意思があったのかどうかはわからない。それでも少女は、途中で途切れたような彼女の首の骨にリボンを巻きつけ、そこに掘り起こされて間もないやわらかな土を被せた。
 少女は立ち上がり、頭蓋骨を胸に抱いたまま歩き始める。茶色と赤の汚れを落とし、彼女が美しい白い骨になるところを思い浮かべると、うっとりと目を細めて微笑んだ。

 


桜の木の下の彼女

 桜の木の下に埋まった死体は、自分を掘り起こす少女のことを思う。
 死体はすでに骨になっている。その身体は土の中で融けて、ほんのりと淡い色の花を咲かせるために桜の木の根に吸われてしまっている。肉体の代わりに土が移り入り、残った骨は茶色に染まっているけれど、水流で汚れを落とし、磨くように拭いてあげれば、すぐに彼女はその真っ白な美しさを取り戻す。
 ガリガリと何かを削る音が次第に近くなり、やがて土が除けられ、少女の指先が彼女の頭蓋に触れ、月が照らす夜が空洞の眼窩に滲み始める。
 少女は白い制服を着ていた。それは土で汚れ、掘り起こすときに爪を割ったのか、ぽつりと赤い跡がついていた。死体の彼女を見つけて、ふうっと静かに息を吐き、けれどその息は、滑り降りてきた桜の花びらをくるりと踊らせた。少女はふわりと微笑む。月明かりが愛しいものに触れたときのやわらかな眼差しを照らしていた。
 小さな手が彼女の頭蓋骨を持ち上げる。少女は彼女をそっと抱きしめて、白い制服がまた土に汚れた。少女はかまわず、まるでようやく見つけた自分の片割れにそうするかのように、ぎゅっと硬い骨を幼い胸に押しつけ続ける。

 

 桜の木に背中を預けているあなたは、月を見上げながら彼女たちのことを夢想する。
 美しい骨になった彼女と、白い制服を着た少女の邂逅を。
 そのときのあなたは煙草を咥えているかもしれない。缶の飲み物を手にしているかもしれない。あるいは、たまたま持っていたリボンのようなものをゆらゆらさせているかもしれない。
 あなたはただ何もなくそこにいた。
 足音に気づいたあなたは、音のするほうに顔を向けた。白い制服を着た少女が立ち止まったところだった。あなたと少女は数瞬だけ見つめ合い、少女は目を伏せるように視線を下げる。あなたは少女の視線の先を追い、自分の足元に目を落とした。
 桜の木の下には死体が埋まっている。そのことは誰もが知っている。あなたの視界の端を、ほんのりと淡い色の桜の花びらが滑り降りていく。


桜の木の下の世界

 桜の木の下に死体が埋まっているそうだけれど、その死体にはもう養分はなく、桜の木は自力で淡い色をした花をつける。薄めた血の色なのかもしれない。土の下で肉体を融かし、白い骨になった君は、そんなことを考えている。身に着けているセーラー服は白地に紺の襟で、けれど土で汚れ、裾もボロボロになっている。胸の下、お腹の上で白い骨の手を組んで、まるで棺の中で永い眠りにつきはじめた人のようだった。
 雨が降るとすぐに散ってしまう儚い花。満開になるとある種の恐ろしさを漂わせる花。桜。ずっと眺めていると異世界に取り込まれるような気持ちになるのはわたしだけだろうか? 君はそう考えるけれど、気持ちのどこかでは自分だけじゃないことも感じ取っている。夜に満開の桜の木の下でつい立ち止まり、ほおっと感嘆の息を吐き、淡い桃色と濃い群青色に見惚れて、けれど本能的な声に促され、急ぎ足で桜の木の下からの逃れたときには、もう以前とは違う世界に立っている。それが桜の木の下の世界。
 土の中でじっとしているのは退屈で、けれど安らかで、誰かに掘り起こしてもらいたいような、このまま忘れ去っていてもらいたいような曖昧な気持ちでいる。あるときふいに微かに聞こえてきた、ガリガリという土を掘る爪の音もそんな気持ちの中で聞いていた。
「何をしているの?」
 君はその問いに答える間もなく、少女の薄い胸に抱かれた。少女の指の爪から滲んだ赤が君の頭蓋骨を指の形に濡らした。眠っていた。休んでいた。桜に花を咲かせていた。土の冷たさを味わっていた。貴女に掘り起こされるのを待っていた。どれも不正解な気がする答えが脳裏をよぎり、なので君は何も答えなかった。
 少女は君を、正確には君の頭蓋骨を連れ帰り、一緒に過ごすことに決めたようだった。部屋の机に上に君を置き、ときどき話しかけたりした。ベッドの中で抱かれて眠ったり、お風呂で君の白さを石鹸とスポンジで磨かれたりした。出会ってしばらくの間、少女は十指のうちの七指に絆創膏を巻いており、君はむずむずするような痛々しさを味わった。けれど少女はオリジナルの絆創膏の歌を作ってみたり、絆創膏を「ばんそこ」と小さく略して言ってみたりして、ひっそりした笑みを口元に浮かべたりもした。
 君を鞄に入れて散歩にも出かけた。古いゲームセンターを見つけて、面白がって一緒にプリクラを撮ったりした。「笑って」という無茶ぶりを聞いた。君は別にカタカタ笑ったりはしなかった。喫茶店に寄り、君をテーブルに置いて、少女は頼んだケーキを頬張り、目を輝かせて、君にその一かけを分けようとフォークを差し出そうとして、十度ほど首を傾け、複雑そうな表情で眉尻を下げたりした。
 一年が過ぎて、また桜の季節。少女は君を連れて、初めて出会った桜の木の下へ。君が埋まっていた桜の木の根元に腰かけて、鞄から君を取り出し隣に置いた。夕暮れどきだった。誰も掘り起こしていなければ、君の身体はまだその下に埋まっているはずだ。
 少女は鞄から保温ボトルを取り出し、赤みがかった褐色の液体を蓋のカップに入れ、君の前に置いた。自分にもステンレスのコップにそれを注いだ。アップルティだった。白い湯気が立っている。
 少女はふーふーとやりながら、舐めるようにちびちび飲む。夕日に照らされたオレンジの空が、しばらくもしないうちに薄紫に染まっていく。満開の桜が夕方のぬるい風に揺られ、ほんのりと淡い色の花びらが滑り降りていく。