水曜日のサビ猫

水曜日のサビ猫

 水曜日は公園でお昼を食べることにしていた。駅の向かう途中にあるパン屋が水曜日をサービスディにしていて、調理パンが二割引きになる。ミックスサンドを買ってから方向転換し、高架下をくぐって駅の裏のほうに歩いていく。
 飲食店は表通り集中しているので、裏の半端な場所にある小さな公園には大抵人がいない。ごくたまに休憩中のサラリーマンが缶コーヒーを飲んでいるところを見かけるくらいだった。
 屋根の下にあるベンチに腰かけて、ミックスサンドと自販機で買ったお茶を横に置いた。今日はここ最近ではいちばんの暑さで、まだ九月だということをあらためて思う。もちろん忘れていたわけではないのだけれど。残暑というのはこういう日のことなのだろう思うと、何だかしみじみする。
 コンビニのよりもいくらか豪華なミックスサンドを齧り、お茶のペットボトルを傾ける。日陰と日向の境目がやけにくっきりしていて、今の気温はどのくらいなのだろうと考える。
 ミックスサンドの玉子のやつを齧っている途中で、ふと公園の入り口のほうに目をやると、ちょうど見慣れたサビ猫が歩いてくるところだった。サビ猫はとすとすと軽快な足取りで近づいてきて、ベンチ近く、日陰になった柱近くにその身を落ち着かせた。座って、くわぁっと欠伸をする。いつも通り彼女に、ふっと笑みがもれる。
 サビ猫はいつも、人間の歩幅で二、三歩程度、慣れているとも警戒しているともつかない微妙な距離を保っている。その距離で毛づくろいを始める。ザリザリと前足の根元を舐める。それを眺めていると、彼女はふいに顔を上げて目を合わせてくる。数秒合わせる。あんまり合わせ過ぎると嫌がられるというのをどこかで聞いたことがあるので、頃合いを見て目を逸らし、またミックスサンドを齧る。目を逸らしたのがわかると、サビ猫はまた毛づくろいを再開する。
 水曜日のお昼、この公園を憩いの場にしている一人と一匹は大体こんなふうにしていた。人間は特にサビ猫を触ろうとしないし、サビ猫のほうも人間に餌をねだってきたりはしない。お互いに何となく気にしながらも、何となく気ままに振る舞う。
 ミックスサンドを食べ終えてから、立ち上がって公園の入り口のほうに歩き出すと、サビ猫がもう一度欠伸をしてから伸びをした。彼女もするりと木陰から離れ、入り口のところまで並んで歩く。
 公園を出たところで別れる。数秒目を合わせて、それから逸らして。とすとすと軽快に歩いていくサビ猫を見送る。
 ではまた水曜日に。


階段を上る彼女

 駅前の店でお昼を食べたあと、コンビニに寄って、夏の名残のようにガリガリ君の梨味を買った。駅の裏のほうに回り、日陰になった自転車置き場の柵に腰かけて、ガリガリ君の袋を開け、行儀悪く齧る。
 台風が持っていてしまったので、雲もなく空は青かった。日陰にいてじっとしていれば、汗ばんだりはしないくらいの暑さだった。遠い車の音なんかを聴きながら、ただガリガリ君を減らしていく。
 ガリガリ君が残り三分の一くらいになった辺りで、静かだった駅の裏に笑い合う声が流れてきた。声のほうに目をやると、五、六人の女子高生が駅に向かって歩いていくのが見えた。一人、車椅子に座っている子がいて、別の一人がそれを押していた。ときどき蛇行させたり、後ろに傾けたりして遊んでいた。
 座っている子は苦笑しながらも楽しそうにしていた。首と肘、それから膝に包帯が巻かれていて、その白さが少し眩しかった。
 試験日で授業は午前中まで、ということだろうか。お昼にはあまり見かけない集団だった。彼女らは駅前で立ち止まる。階段の手前で。
 改札口は階段を上ったところにあり、このまま車椅子を押していくのは難しそうだった。エレベーターもスロープもあったように思うけれど、ただそれらは駅の表側にあった。高架下をくぐって表側に向かうのかなと思って見ていると、彼女らは自分のポケットや鞄をごそごそと探り始めた。
 取り出したのは工具だった。ドライバー。スパナ。六角レンチ。それらを使って車椅子を分解し始める。ガランと車輪が外され、次いで肘かけが外され、座っている子の腕がだらんとした。フレームがばらされ、ただの部品になっていく。
 彼女らの一人が座っている子の包帯をぐるぐるっとほどき、別の一人がその下の、さっきまでは隠れていた螺子にドライバーを当てた。
 ちょうど関節のところに螺子があるようだった。首のところだけ六角レンチ用の螺子。座っている子は分解されながら少しくすぐったそうにしていた。
 彼女らは分解を終えると、それぞれ部品を抱えて駆けるように階段を上っていく。階段の上でまた組み立てるのだろう。
 ガリガリ君が棒だけになったので、そろそろ戻ろうかと高架下のほうに歩き出した。ちらりと目をやると、女子高生の集団は最後の一人が同級生の頭を胸に抱えて階段を上っていくところだった。
 女子高生の胸に抱かれながら移動する。変態扱いされそうなので誰にも言わないけれど、少しばかり羨ましい気がした。


淡い灰色の少女

 水曜日は週末ではなく、パン屋は大通りから路地に入ったところにあり、その前をサビ猫が歩いていた。パン屋には『水曜サービスディ 調理パン20%オフ』という貼り紙が貼られていた。
 サビ猫はただ通り過ぎ、わたしはパン屋のドアを押し開ける。ドア横にはポスターが貼られていた。紅葉をまとった街路樹と、それに手を伸ばしかける少女の後ろ姿が描かれていた。全体的に水墨のような淡い灰色で描かれ、紅葉の葉だけほんのりと赤い。その絵の下に二人の個人名と、日時と展示会開催のお知らせ、それから見知らぬ画廊の名前が記載されていた。
 イベントスペースのような画廊かな、と思いながら、わたしはパン屋の中に入って、調理パンが並べてある棚に目をやる。入り口近くに重ねてあるトレィに手を伸ばした。レジのほうには目を向けないようにして棚の間を進む。
 気づいたのは最近だった。高校のときのクラスによく学校をサボる子がいた。ショートで眼鏡をかけた子。何度か言葉を交わしたことはあるけれど、友達というわけでもなかった。どちらかというと目立たないタイプで、別のクラスの友達がよく遊びにきていた。ただ、サボるときもその友達に教えていなかったらしく、「またか」とたびたび毒づかれていた。
 よくサボるその子は美術部で、美術展や写真展を見にいくためにサボっていたらしい。高校を卒業してから芸大に進んだというのをどこかで聞いた。この近くに芸大があるのも、どこかで聞いた。
 行きつけのパン屋に高校の同級生が働き出した場合、どういう反応をするのが正解なのだろう。とりあえずはまだ気づいていないことにするという、ごくごく当たり前の反応を選択していた。
 ツナサンドとコロッケパンをトレィにのせて、レジに持っていく。レジ打ちは眼鏡をかけていた。その奥の目が切れ長なのも最近気づいたことだ。
 お金を払ってお釣りをもらう。そのあと彼女は袋詰めしたパンと一緒に、何かを差し出してきた。
「あの、これ、よかったら」
「……え?」
 ポストカードだった。淡い灰色の少女。ほんのりと赤い紅葉。ドア横のポスターを思い起こす。そのポストカード版だった。
 ついっと顔を上げて彼女の顔を見やると、彼女はレジ打ちのプロみたいな顔をしていた。けれど、耳が赤かった。冬か、雪国の子か、というくらい赤かった。
 クッと喉が鳴って、そのあと顔を伏せて、笑いの発作をかみ殺した。気づいてたんなら言えよ、と自分のことを棚に上げて思う。
「うん、はい、いくよ。見にいく」
「あ……うん、ありがとう」
 はあっと何かを諦めたような、安堵するような息が漏れた。


カウンターバーの二人

「こうね、螺子があって、それは六角レンチで回す用のちょっと大きめの螺子で、それを外すと首も外れるようになってさ」
 薄暗いオレンジ色の明かりが照らすカウンターバーで、酔って少しぐらぐらしている彼女がときどき深く息をつきながら、隣の女性に話しかけていた。
 隣の女性は慣れているのか、半ば聞き流しながら氷の入ったグラスを傾けている。グラスの中身は琥珀色で、とけた氷と混ざり合い、煙のような模様を作っていた。彼女は一秒と少しだけそれに見とれて、またすぐに視線を隣の女性の頬に移した。視線はなめらかに降りていく。頬から細いあごに。細い首筋に。
「でも乱暴に回したり、慣れてなかったりすると中で切れて、螺子穴から、つうっと血が垂れて、あっ、ごめん、とか言いながらハンカチで押さえて」
 女性はちらりと彼女のほうを見やり、すっと視線を滑らせて、彼女の前のグラスを確かめた。その中身も琥珀色の液体で、女性のそれよりも随分と薄まっていた。
「うん、それで?」
 女性はグラスに口をつけて琥珀色の液体を舐める。強めのお酒に、彼女からは見えない側の目を細めた。
「それでね、中学生とか、高校生とか、女の子とか、仲の良い子同士で首と首を交換するのが流行ってさ、で、お互いに螺子を回しあったりするんだよ。六角レンチを持って」
 そう言いながら彼女はすっと手を伸ばし、指先で女性の首筋に触れた。それがあまりに自然な仕草だったから、女性は反応が遅れ、触られた瞬間、ビクリと身を震わせた。女性はふっと短く息をつくと、横目で彼女を軽く睨みつけた。けれど彼女は誤魔化し笑いを浮かべるだけで、女性の首筋を触ったままでいた。
「そういうの、そういう文化……みたいなのがあったらいいなあって。楽しそうじゃない?」
 彼女はそう言いながら、指先で女性の首筋にある継ぎ目をなぞった。女性は諦めたように苦笑して、またグラスを傾ける。それから少し傾きを戻し、グラスに口をつけたまま「でも」と呟くように言った。
「でも実際には組木細工だから。一旦外すとまた組み合わせるの大変だし、流行らないよね」
「そうだよねえ。……まったく、現実ってのはほんとままならないもんだね」
「うん、まあ、そういうものです」


理科準備室の二人

 剥製があって、ホルマリン漬けがあって、けれど人体模型がないのが不思議だった。
 理科準備室の丸椅子に座る彼女は、太ももの下に手を入れて、椅子の冷たさを抑えていた。細い目は笑うと弧を描く二つの線になる。愛嬌のある後輩という立場をとっている彼女だけれど、その笑みの下に何かを隠していそうで怖くもある。
 ショートボブの髪。細い首筋。わたしは彼女の首筋に指先を触れさせて、そっと滑らせていく。彼女が太ももの下に手を入れた姿勢のまま顔を上げる。彼女の首筋を撫でているわたしの指が、そこにある硬い感触を捉えた。螺子穴。六角螺子の穴。
 彼女は太ももの下にあった手を抜き出して、胸の前に持ってくる。その手はゆるく握られていて、開けると黒い小さな金属製のものが見えた。細長い六角形の棒をL字に曲げたもので、使い込まれて先が少しすり減っていた。
 差し出された左手にあったほうを受け取って、わたしは彼女の螺子穴にそれを挿し込んだ。回る方向を考えながら、グッと引くと、螺子は細長い六角形を数秒軋ませてから、キュウッと音を立てた。キュルキュルと螺子山が鳴り、少しずつ螺子の頭が浮き出てくる。
 彼女もわたしの首筋に手を伸ばして、細長い六角形で螺子山を鳴らし始める。
 キュルキュル、キュルキュル、と、音が重なる。その音の重なりに、彼女はくすぐったそうに目を細めた。弧を描く二本の線と、螺子の滑る音が、何故だかひどく似合っている気がした。
 やがて首の半ばまで入っていた彼女の螺子が外れ、わたしの手の中に収まる。螺子を右手の小指に絡ませて、彼女のあごの下に両手を添えて持ち上げる。茶筒の蓋を開けるような微かな抵抗があった。
 遅れてわたしの螺子が外れ、それから、すっと視界が上がる。わたしはわたしの身体から離れ、彼女の身体に近づいていく。頭と頭がすれ違い、けれど腕と腕が絡まり、持ち替えて、同時に視界が回り、わたしの目はわたしの身体を捉える。
 わたしの身体の上に、彼女の笑みがある。わたしは彼女の身体の上で、彼女の笑みの下にあるものを思う。


スリーポイントシューター

 明らかに遅刻だった。学校は八時半に始まる。今は八時二十八分で、私は駅前にいて、駅から学校までは急いでも十分はかかる。いつものペースで歩くと大体十三分くらい。じゃあ一先ず一限目は欠席で、と人気の少ない駅の裏側に降りた。
 どうやって二時限目まで時間をつぶそうかと考えていると、線路沿いの歩道にカラスが歩いているのを見つけた。ちょっと珍しい光景のような気がして、何となくその後を追ってみる。
 カラスはやはり空を飛ぶ生き物らしく、たどたどしい足取りだった。ひょこひょこと、鳥の中では大柄な部類の体を揺らしていて、見ているうちに何だか気持ちが和む気がした。
 猫を追ってるうちに異世界に紛れ込む。秘密の国のアリスだっけ。いやあれはうさぎか。このカラスを追ってるうちに、私も紛れ込んだりはしないだろうか。そんな童話や漫画にありそうな光景を想像して、うっすらと自嘲が込もった笑みを浮かべたりする。
 夏の続きのような日々の中で、今日はほどよく涼しく、このまま学校をサボってしまうのもいいなと思う。今日、水曜日の授業内容を思い浮かべる。そういえば四時限目に体育があった。バスケだ。それを思うと、どうしようかと迷う。
 そうだ、私には使命があった。学校で待つ級友たちに、私のスリーポイントシューターとしての才能を見せつけてやらねばならぬという使命が。五本打ったら四本はリングに当たり、そのうちの一本くらいは入ったり入らなかったりするのだ。反応に困りそうな割合だ。
 カラスはしばらく飛ぶこともなく、高架下の線路沿いをひょこひょこと歩いた。少し距離を置いて、私も同じ速度で歩く。けれどふいに高架下の通路からサビ猫が姿を現し、それを見たカラスは足を止め、躓くように私も止まった。サビ猫も動きを止める。
 一羽と一匹はお互いに驚いたようだった。睨み合いのような数秒のあと、カラスが翼を広げた。ばさばさと音を立てて飛び立つと、近くの街灯の上に降りた。
 サビ猫は私と同じように目でカラスの動きを追っていたけれど、すぐに興味を失って、軽快な足取りで歩み去っていった。
 私はカラスを見上げ、カラスは私を見下ろしていた。
「アー」とカラスが一声鳴いた。
 遊びは終わりや。姉ちゃん学生やろ、はよガッコいきや。などと言われたような気がした。関西弁だった。池乃めだか師匠の声で脳内再生された。
 めだか師匠なら仕方ないなあ、と私は胸の中で呟き、踵を返し、高架下をくぐった。仕方がないので、あとで級友にスリーポイントシューターとしての才能を見せつけてやることにした。

 

茶トラと茶トラ白

 公園でお昼を食べるのもぎりぎりかな、と彼は焼きそばパンを頬張りながら胸の中で呟いた。風はひんやりと冷たく、段々と冬に近づいているのを感じた。日向のベンチに座っているのでまだ過ごしやすいと言えるが、そろそろ限界に近い気がしていた。
 猫がいる。茶トラと茶トラに白混じりとの二匹。公園によくお昼を食べにくる彼のことを憶えてしまっているようだった。茶トラはちょこんと座り、茶トラ白はごろんとだらけた様子で彼が餌をくれるのを待っていた。彼の近くにはいるが、彼が不審な行動をしたらいつでも逃げられるような安全距離を保っていた。
 急にその二匹は立ち上がり、彼から軽く距離を取った。彼は一瞬疑問に思うが、すぐに気づいて振り返る。ここらでは見慣れない制服の女子中学生が立ち尽くしていた。彼女はふーっと残念そうな息をついて、彼の隣に座った。
「どうすればお近づきになれますかね」
 膝を支えに頬杖して、物憂げな様子を醸し出しながら言う。
「いや俺もお近づきになってないから」
「仲いいじゃないですか」
「餌くれるから寄ってきてるだけだよ」
 何で俺は女子中学生と仲よく話してるんだろう。そんなに仲よくもないが。猫か。猫だな。焼きそばパンにつられて猫が寄ってきて、猫につられて女子中学生が寄ってきた。彼は事の経緯を頭の中で簡単にまとめると、また焼きそばパンを齧った。そうして「まあいろいろあるんですよ」という彼女の言葉を思い出した。
 彼女とは毎日のようにこの公園で会っていた。サボりだろう。悪そうには見えない普通の子だ。不登校という言葉が彼の脳裏に浮かぶのだが、かといってどうすればいいのかはわからなかった。
 ――学校は? 休み?
 ――まあいろいろあるんですよ。
「野良猫は警戒心が強いんですかね」
「いや野良じゃないと思うよ。毛並みいいし、人懐っこいほうだし。きっかけがあればってとこじゃないかな」
 彼はポケットを探ると、昨日スーパーで買ってきたものを彼女に差し出した。
「ん?」
 気づいた彼女が不思議そうにしてそれを受け取る。袋には「お魚ジャーキー」と書かれていた。まぐろらしい。
「ん」
「うん」
 彼女が袋を開けて、正面にいる猫二匹に中のジャーキーを差し出した。
「大丈夫かなあ」
 彼女が心配そうに言った。
「……まあ、大丈夫じゃないかな」
 彼は気休めを口にする。
 猫二匹はしばらく警戒していたものの、茶トラ白のほうが恐る恐る近づいてくる。

 

猫とカラス

 猫に似ていた。彼女とは似ても似つかない錆柄の猫に。
 モーニングセットはサンドイッチとサラダとコーヒー。ウェイトレスの彼女はそれをテーブルに並べながら、くあぁと大きく欠伸をした。サラダの入った小鉢を置いてから、彼女は潤んだ目をわたしに向けた。
「よく、くるよね」
 あんまり興味もなさげに彼女は言う。
 バイトは一応校則違反になるけれど、ばれても停学などにはならず、呼び出されて指導を受けるくらいなので、する人はして、しない人はしない。彼女は前者のほうで、わたしは後者のほうだった。
「まあ、家近いし」
 最初は気づかなかった。基本的にはパン屋で、その奥に喫茶店のテーブルがある。秋口のある日、学校帰り、夕飯までの時間潰しに入ったのがきっかけだった。テーブルにコーヒーを置かれたときも気づかずに、クロワッサンをもしゃもしゃしているときにようやく彼女に気づいた。
 長い濡れ羽色の髪を三つ編みにしていた。ウェイトレスらしくない、あまりやる気の見られない感じが、逆に好まれているようだった。彼女目当てのような常連客もちらほらといるらしい。
「ふうん」
 彼女は暇そうな空気を醸し出しながら佇んでいた。調理場の動きは止まっており、どうやらわたしので注文は終わったらしい。わたしはコーヒーカップを片手に少し考えて、でも何も思い浮かばなかったので、さっき思ったことを口にした。
「猫みたいだね」
「……猫?」
「駅前でよく見かけるサビ猫。あんまり人懐っこくないんだけど、気まぐれに近づいてきて、でも手を伸ばすと逃げられる」
「……うん?」
「似てるね」
「……似てる?」
「何となくね。そんな感じがする」
「ふうん」
「うん」
「……ちょっといい?」
「うん?」
「サンドイッチ、持ち上げてみてくれない?」
「ん……、こう?」
「そう」
 彼女は頷くと、わたしの手首を掴んだ。サンドイッチが中途半端な高さに固定され、彼女が少し屈んで齧りついた。白い歯がパンを千切り、サンドイッチの半分が持っていかれた。
 呆然とするわたしに、彼女は自分の口を押えて何度かもごもごしてから、にっと口の端で笑った。
「ごちそうさま」
「……いいけど」
「前、カラスみたいだって言われたことがあるよ」
 わたしは彼女の濡れ羽色の髪に目を移した。確かに猫よりもカラスのほうがイメージとしては近いかもしれない。
「だから、餌を横取りしてみた」
「……そう」
「朝食まだでね」
「まあ、いいけど」
 それでもわたしは猫みたいだと思っていた。気まぐれな猫が、気まぐれに近づいてきたみたいだった。


アイス

 アイスはチョコミントだった。その食べ物とは思えない色は、高架下の灯りに照らされて、うっすらとオレンジに染まっていた。その色が食べ物らしいかというと微妙なところだけれど、緑がかった水色よりかはましな気がした。別にチョコミントが嫌いなわけでもないけれど。
 私はコンクリートの壁を背もたれに、パーカーの裾をお尻に敷くようにして座り、サッカーボールが往復するところを眺めている。バスン、バスンという鈍い音が、高架下通路の中で反響する。倉庫のシャッターが連なる高架下は、埃っぽくて、落ち着く空間だった。
 犬井が蹴り損なったボールが、楠木の右横を抜けていった。
「ごめん」
 楠木にそう言いながら、彼女は私のほうに歩み寄ってくる。女子高に入学してから半年が経った今でも、犬井は男の子っぽい性格のままだった。むしろ女子高だからかもしれない。モテそうだ。女子に。
 木のスプーンで掬ったチョコミントを差し出すと、犬井は歯と唇でスプーンからアイスを削いで、ぺろりと唇を舐めた。
「あんがと。アイスてるよ」
 ……ダジャレか! おっさんか! 脳内で激しくツッコミながら、私は「どうも」と短く応えた。
「……冷たい」
 楠木が戻ってきて、またボールの往復が始める。
 私は中学からだけど、犬井と楠木は小学校のときからの幼馴染だ。男女なのに、二人はどこか似ている気がした。遊んでいるところを見ると、犬がじゃれ合っているような印象があった。
 私は二人よりも勉強ができてしまったので、三人の中では一番遠くの高校に通っている。今の私の印象は、「何だか疲れてる」といったところだろうか。
 私はチョコミントを空にして立ち上がり、パーカーの裾をぱたぱたとはたいた。
「どしたん?」
 犬井がボールを止めて、小首を傾げる。
「んー、コンビニ」
 私は応えながら自分の行動を決めた。
「じゃあ俺もアイス……というか、一緒にいくわ」
「あ、じゃあ」
 一緒の行動を取ろうとする楠木と犬井を押し留めて、私は一人、薄暗い高架下から外に出て、夕暮れの明るさに目を細めた。
ガリガリ君と、スイカバー」
 頼まれた物を呟きながら、近くのコンビニに向かう。途中にあるマンションの壁が、陽に当たって明るいオレンジに染まっていた。
 薄暗いオレンジの灯り、高架下の埃っぽさ、じゃれ合う犬のような二人も、往復するボールを眺める時間も、案外嫌いじゃない。
 なのでまあ、なるべく早く戻ろうと思う。


夜の音楽室

 夜の校舎からにじみ出て、私は人の形を象る。白くぼんやりとした輪郭を、はっきりさせていく。
 さて、どんな格好をしよう。いつもみたく白ワンピを着て窓際に立って、目撃した人をぞっとさせるのがいいだろうか。
 台風が舐めていったので、校庭の土が湿っていた。雨を思い浮かべるうちに、服が水色に染まり、また考え直すのも面倒なので、そのまま水色のワンピースで落ち着かせた。
 校庭の向こうには大通りがあり、たまに車のライトが通り過ぎていく。水色は白よりも目立たない。だから安心して通り過ぎるといいよ、などと思いつつ、私はただ窓の外を眺める。空には雲が広がり、月の姿は見えなかった。
 夜の十二時を回り、曜日が水曜日から木曜日に変わり、もうそろそろかなと教室のほうに目を移すと、制服姿の女の子が眠そうにしながら座っているのを見つけた。真ん中辺りの席、淡い色合いで、陽炎のようだった。
 彼女の本体は不眠症ぎみで、布団に入ってから寝入るまでに時間がかかる。そうやって布団の中で夢と現とをふらふらしているうちに、意識が夜の学校に迷い込むのだ。水曜日の夜から木曜日の陽の上る前にかけての時間が、ここに迷い込むのに相性がいいようだった。
「眠れない?」
 いつものように私が聞くと、彼女もいつものようにかくんと頷いた。
「じゃあ暇つぶしに」
 私がそう言うと、彼女の口元が綻んだ。
 暇つぶしに夜の学校を徘徊する。廊下は冷たく静かだ。足音もなく冷ややかな空気の中を歩いていく。
 夜の学校ではいろいろなことが起こる。音楽室では血まみれの女生徒がピアノを弾いていたり、美術室ではデッサン用の石像がゴトゴト動いていたり、理科準備室では二人の少女が首を交換していたり、体育館では首のないバスケ部員がバスケをしていたり……。
 今日はどこに行こうかと考えながら歩いていると、足元を小さな獣が通り過ぎた。それは猫の形をして、黒と茶色で斑だった。猫の形は階段の前でとまって、振り向いて、にゃー、と鳴いた。そうして階段を降りていく。
「音楽室」
「うん、音楽室」
 私と彼女は階段を下りて音楽室に向かった。

 音楽室の壁に寄りかかって、ピアノの音を聴く。静かな少し眠たくなるような曲だった。私も彼女も音楽には詳しくないので、聴き覚えはあるのに何の曲かはわからなかった。
 血まみれの女生徒は、ピアノの鍵盤に赤い指の跡を残しながら、なだらかに体を揺らしていた。血まみれさんは血まみれのわりにサービス精神旺盛だった。私だけが聴いているときは、ジャズめいた跳ねた曲を弾くのに、水曜日に紛れ込む彼女が一緒のときは子守唄のめいた曲を選んで弾いていた。
 血まみれさんの四曲目を聴いている途中で、彼女は欠伸を漏らし、すっと顔を上げて私の顔を見やった。
「そろそろ眠れそう?」
 私がそう聞くと、彼女はかくんと頷いた。
 そうして彼女が目を瞑ると、すぐに霧が晴れるように、その姿が消えていく。取り残されて、何だかさみしいような気持ちにもなる。
 私は音楽室を横切り窓際に寄り、外の明かりの少ない景色に目を滑らせた。彼女はどの方向にいるのだろう。わからない。でも、よく眠れるといいね、と胸の中で伝える。また会えるといいね。水曜日の夜、木曜日の陽の上る前、また。
 私は窓枠に寄りかかって、ほうっと息をつく。それを聞いていたのか、血まみれさんが夕方の帰り道のような曲を弾き始めた。