熊の本

 ロングスカートの裾に絡みつくように、ハードカバーの本が歩いていた。黒っぽい表紙。女の子が寝そべっている絵と、黒板にチョークを滑らせて描いたような椅子や蝶々。本に足が生えていたりはしない。角と角とでステップを踏んで、コツ、コツ、コツ、とヒールで床を踏むような音を立てている。
 その前を、何冊かの本を抱えた店主さんが歩いていた。本棚の隙間をふらふらと。立ち止まって抱えた本の一冊を本棚に収めようとしたとき、ついてきていた本が彼女のふくらはぎにぶつかった。
「ふぁっ」
 店主さんの右足が滑り、左足がガクンと折れる。膝がもう六十度ほど曲がるとコサックダンスみたいになるところだった。
 僕はカウンター前から店主さんのほうに歩み寄り、ぶつかった拍子に倒れた黒っぽいハードカバーを拾い上げる。
「……見てたの?」
 店主さんがジト目を向けながら聞いた。
「見てましたよ」
 僕は本のタイトルを確かめながら応えた。『大きな熊が来る前に、おやすみ』
 店主さんは二十代半ばの女性だ。長い黒髪に眼鏡。古本屋の店主。しかし安楽椅子探偵のようなことはしない。
「見てたんなら言ってよ」
「いや、どうなるかと思って……」
 そう言いながら僕は店主さんが抱えていた本の一番上にハードカバーを置いた。店主さんは怒ったように唇を尖らせながら、僕に自分が抱えていた本を持たせ、そのハードカバーを手に取った。
「その本がついてきてる音とか、聞こえませんでした?」
「え……、そう言えば何か音がするなって。ハイヒールみたいな」
「気をつけないと。その本が変質者だったらどうします?」
「むー……」
 店主さんが顎に手をやって真剣に考えている間に、僕は抱えていた本をカウンターの上に置いた。
「でも、これ、熊だし……」
「熊ですね」
「熊だよ」
「熊ですね」
「何でついてきてたんだろ?」
「んー、朝何食べました?」
 今は午前十一時前。開店する前に本の整理をしていたところだった。
「ホットケーキ。ハチミツかけて」
「じゃあ、そのハチミツじゃないですかね」
 クマのプーさんの功績によって、熊のハチミツ好きは世間に浸透している。
「あー、なるほど」
 なるほど、なのか。
 本の整理に戻ろうとした僕を、「あ、ちょっと」と店主さんが呼び止めた。振り向くと店主さんは本を僕のほうに見せるように広げていた。嫌な予感がしたので慌てて身体を後ろに反らすと、それとほぼ同時に開いたページから熊の手が伸びてきた。鋭い爪が頬を掠める。ビュッと風を切る音がして、熊の手は一瞬で本の中に戻った。
「チッ」

 店主さんが心底残念そうに舌打ちした。
「……何するんですか」
「冗談冗談」
「いや掠めましたから。頬を」
 頬を触ると軽く濡れた感触があった。触れた指先を見ると、うっすらと赤く染まっていた。しかしそれほど深い傷ではない。
「舐めたげようか」
 にんまりしながら店主さんが言う。髪を押さえながら唇を寄せてくる店主さんを想像する。薄く口を開け、赤い舌を覗かせる。しかし、現実の店主さんは、またさっきと同じように本を開いた。
 今度は熊の顔が出てきた。口を開け鋭い牙が見えたところで、店主さんは本から手を離し、持ち替えるように熊の上顎と下顎を掴んだ。そのまま僕の頬に熊の口を近づける。
 べろりと僕の頬を大きな舌が舐め上げた。熊だった。
「熊かあ」
「熊だよ」
 僕はさっきよりもずっと濡れた頬を触り、何となくその指先のにおいを嗅いだ。ハチミツの甘いにおいがした。