旅先で突然偶然一日暇が出来てしまった女の子のお話

 温泉とお城があるところ。わたしがオーダーしたのはその二つだった。旅行の計画者はパンフやチラシやインターネットを駆使して、ちゃんとわたしのオーダーを叶えてくれた。けれども、その本人は急な仕事が入ったとのことで一日遅れるそうだ。
 巡り合わせが良いのか悪いのか。わたしは露天風呂の湯をてのひらで掬い上げながらそう胸の中で呟いた。触り心地のよい湯が、てのひらの端や指の隙間からこぼれ落ちていく。もう三月の半ばも過ぎたのに空気はひんやりと冷たく、うっすら白い湯気が立ち上り、木の屋根と竹の塀の隙間からは緑が覗き、遠く鳥の鳴き声が聞こえ、時間帯の問題なのか広い浴場の中に一人で、そんなのが何だかちょうどよかった。
 ほおっと息をついて、今日はこの後どうしようかと思う。お湯の中で片膝を抱えると、ちゃぽんと温泉らしい音がした。湯の上に出た丸い膝が冷たい空気に触れて、冷たかった。小一時間、ふやけるくらいお湯につかっていても一日はまだ終わりそうもない。旅館の部屋でただぼーっとするのもいいのだけれど。
 脱衣所のほうから人が蠢く音が聞こえてきて、それを機にわたしは湯の中から身体を持ち上げた。ぺたんぺたんと濡れた足跡をつけながら脱衣所に向かい、しゅうっと戸を滑らせると、中には四十前くらいの女性と小学の真ん中くらいの女の子がいた。女の子は髪をピンクのゴムで縛っていて、母親らしい女性がゴムを解きかけているところだった。
 わたしは軽く会釈してその背後を通り過ぎ、手首につけた白いゴムを指に引っかけて外し、ロッカーの鍵を手に取った。86番。それを挿してカチンと鍵を鳴らした。86。その数字が好ましく思えるのは何故だろう。そんな特に理由もなさそうなことに思いを巡らせながら、身体を拭いて、髪の水気を減らした。
 ほこほこする身体を手で扇いだりして、湯冷めしないように部屋でしばらくぼーっとしてから、出かける決意を固めた。
 一応持ってきたマフラーが役に立った。必要なものだけ小さな鞄に詰めて、他の荷物を旅館に預け、完全防備した身体を、暖かい建物の中から、やっ、と投げ出した。
 どこに向かおうか、と考える前に足は駅のほうに向かっていた。知らない場所を道に迷い気味にぶらつくのも嫌いではないのだけれど、今日はさすがにちょっと寒かったらしい。駅前の繁華街とか、電車に揺られて適当な駅で降りて迷わない程度の範囲をぶらつくのがいいかなと思いながら、その繁華街を通り過ぎる。ICカードをピッとして、数分待ってからやってきた三車両の電車に乗り込んだ。
 電車の中は空いていたけれど、ドア横のところにもたれかかって、流れる景色を眺めながら降りる駅を吟味する。電車は山間を縫うように進み、駅に近づくにつれて緑と茶色以外の色が増えていく。どこがいいかなあと少し眠たくなりながら眺めているうちに、三毛猫の三色が目に入った。線路沿いを軽快に歩いていた。ちょうど車内のアナウンスが次の駅名を告げてきたので、わたしは鞄をかけ直した。
 改札をくぐってから、ゆっくり歩きながら辺りを見渡し、けれど見つけたのは三毛猫ではなかった。サバトラ……と言うのだろうか、灰色と黒の縞々で、鼻とお腹のところが白の三色だった。あまり車の通らない道路を横切り、商店街らしいアーケードに入っていく。わたしも彼か彼女かを追って道路を横切り、アーケードの中に足を踏み入れた。三毛猫はほとんどが雌らしいのは聞いたことがあるのだけれど、サバトラがどうなのかはよく知らない。
 中は薄暗く、開いているお店は少ないというほどでもないけれど、それほど多くもなかった。中ほどに小さなスーパーがあり、自転車を止めるための柵に、耳のたれた黒くて大きな犬が繋がれていた。歩いてくサバトラを見送るように首を曲げていたけれど、わたしの足音に気づくと顔を向けてきた。つぶらな瞳がさみしそうで、大人しそうにも思えたので、近づいてそっと手を伸ばした。彼か彼女かは、鼻先でわたしの手を触るくらいで、吠えたり避けたりはしなかった。
 空気が冷たいからか、彼か彼女かも少し冷たかった。ペットの犬猫にぎゅっと抱きつきたい欲望は人並みにある。それを抑えながら黒い毛皮にするすると手を滑らせた。彼か彼女かはずっと大人しくしていた。
 しばらくそうしてから、わたしはサバトラが歩いていったほうに足を向けた。何歩か進んでから振り返ると、つぶらな瞳がわたしのほうに向いていた。サバトラを見送ったときもこんな目をしてのだろうか、と思いながら、そっと手を振った。
 商店街を抜けると、ごく普通の民家が連なる、ごく普通の光景があった。わたしはまたゆっくり歩きながら辺りを見渡し、今度は緑を見つけた。ごく普通の公園の緑だ。
 中くらいの、と言いたくなるような公園で、きっとこの寒さのせいであまり人はいなかった。入り口近くのベンチのそばに、さっきのサバトラが丸まっていた。わたしはそっと公園に入り、そっと近寄り、そっとベンチに腰かけた。サバトラはちらりと目を向けただけで、逃げるようなそぶりはしなかった。ただ、手を伸ばすと嫌がるようなそぶりを見せたので、その手を引っ込め、鞄を横に置いてから、ベンチの背もたれに身体を預けた。
 正面を向くと、少し遠くだけれどお城が望めた。白の壁に緑っぽい瓦。このベンチからだとちょうどよく建物の陰にならずに済んでいるようだった。へー、と特に意味のない声が漏れる。深呼吸するように二回息をついてから、わたしは鞄を開けて、持ってきていたデジカメを取り出した。電源をオンにして遠い正面にレンズを向ける。シャッターを半押しして、自動でピントを合わせたところで、明日合流する連れのことを思い出した。明日、お城の周りを歩き回って、散々写真を撮って、とかするのだろうなと思った。
 別に撮ってもいいのだけど、と思いながら、わたしはそばのサバトラのほうにレンズを向けた。突然妙な機械を向けられたサバトラは、怪訝そうしながら、ニャーと鳴いた。わたしはとりあえず、カシャッとデジカメのシャッター音で返事をした。