王道の恋愛ストーリー

 もう緑が混じる散りかけの葉桜を見て、雨の日の濡れた桜のつぼみを思い出すのは変なことだろうか。隣を歩く彼にそう言うと、変な顔をされるだろうか。変な想像をされるかもしれない。そう思うと、喉の奥が小さく笑みの音を立てた。濡れた桜のつぼみは、個人的には満開に咲いた桜よりもかわいらしいと思う。誰かの同意を得られるかどうかはわからないけれど。
 夜道だけれど、繁華街に近い大通りなので明るかった。わたしを私鉄の駅まで送ってくれている彼は、車道の信号の光に目をやっていた。ほろよい気分。時期の遅い花見の席で何となく隣同士になり、何となくたらたら話していたら、からかうような生温かい目で見られたり、軽く囃し立てられるようなことを言われたりもした。悪気がないのはわかっているけれど、そうされるとどことなく居心地が悪い感じになる。きっと彼もそうだったのだろう。からかわれるままに駅まで送っていかれることになった。
 歩きながら彼の横顔を覗き見る。花見のとき、誰かと誰かが話すアイドルタレントの移り変わりという、今はもう内容を忘れてしまっている話を聞いていたときにも、彼の横顔を覗き見ていた。彼の顔が誰かに、というか何かに似ている気がして、ずっと考えていたのだけれど、信号で立ち止まったときに唐突に思い至った。
 犬。黒い犬。いつだったか旅先で見た、黒くて大きな耳の垂れた犬。どことなくさみしそうな目をしていた。
 ああ、なんだ、と肩の荷が下りたような気持ちで、ふっと息をついた。彼の横顔。黒い瞳。酔っぱらっているせいか少し潤んでいて、そういったところもそっくりだった。
 彼のほうが背が高く、すぐそばにいるので、わたしの首はシャフ度のようになっている。このままだと首がつりそうだなあとのんびり考えていると、彼が気づいて顔を向けて、口元を笑みにした。
「何、ですか?」
 わたしのほうが彼よりも二つ年上で、彼はわたしに対しては大体敬語で話す。酔うとそれが崩れることもあるけれど、今は大丈夫らしい。
「犬に似てる」
 何も考えず、口走るようにわたしは言った。
 信号が青になり、横断歩道を渡りながら旅行に行ったときの話をした。一緒に旅行するはずだった相手に仕事が入って、一日暇ができたこと。温泉に入って電車に乗って、見知らぬ適当な駅で降りて何となく猫を追いかけたこと。途中にあったスーパーの前に黒くて大きな犬が繋がれていて、大人しかったので撫でてみたこと。
「おんなじ目をしてる」
 さみしそう、とは言わなかった。
「そう、ですか……」
 何だか困ったような反応をされて、少し楽しいような気持ちになる。
「からかわれたね」
「そうですね」
「……そういうの、苦手?」
 反応が微妙だったので、また少しシャフ度をしてみる。
「……あんまり、うまくいったことがなくて」
「そっか」
 信号を渡って少し歩いて、左に曲がる。駅前の明かりが見えて、目がちかちかした。
 ――次はうまくいくかもしれないよ。
 そう言おうとしたところで、彼が先に口を開いた。
「どうも、相手を犬猫みたいに扱ってしまうみたいで」
「……ダメなの?」
 ダメかどうかは知りませんけど。と、そう言ってから、彼は迷ったように黙り込んだあとに続けた。
「あんまり人間扱いされてないように感じるみたいで」
「んー……、猫っかわいがりしちゃうんだ」
「あー、そうですね。そんな感じです」
 駅前に着いたので立ち止まり、少し端に寄って、何となく向き合った。彼はJRなので、ここを通り過ぎてまた五分ほど歩く。真っ直ぐ向くと彼の少し潤んだ目があって、わたしはつい、ふふっと口元で笑ってしまった。
「何ですか?」
 彼もつられて笑みを浮かべる。
 いつだったかネットで見た、大きな犬と子猫が仲よく寝そべっている写真、それを思い出したのだ。
 ふいに大きな犬を抱きしめたくなった。黒くて大きくて耳の垂れた、少しさみしそうな目をした犬を。子猫のようにじゃれついて、噛みついたり引っ掻いたりして、大きな犬を困らせてみたくなった。わたしの腕がそうしたがって、ぴくりとだけ動いた。
 ――少し屈んでみて。
 そう言いかけた言葉を、静かな息にして吐き出す。
「それじゃあ、また明日」
「はい、また明日」
 旅先で出会ったあの大きな犬を、撫でるだけじゃなくって、ちゃんと抱きしめておけばよかったと思った。そうしなくてよかったと、彼の眼を見ていて思ったりもした。