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雨の日、桜の木の下の少女たち

novelcluster.hatenablog.jp

こちらに参加します。

 

 

 

 雨の日は雨のにおいが支配する。普段、街中にふわふわと漂っている柑橘系の防腐剤のにおいは、雨のにおいに覆い隠されていた。

 朝からの雨、彼は開店前のスーパーの庇で雨宿りをして、車道を挟んだ向こう側の歩道に目を向けていた。そこには小さな公園があり、桜の木があり、その下に何人かの少女たちが集っていた。彼女らはみな薄地の長袖の制服を着ていた。春の、桜の季節のセーラー服だ。白地に紺の襟。スカーフの色はそれぞれで違っていて、臙脂か水色か乳白色。学年の違いを示しているのかもしれない。けれど、彼には彼女たちの誰が一年生か二年生か三年生かの見分けはつかない。同じ年代にいなければ、一年二年の差などわからないものだ。

 桜の木は歩道の上にまで枝を伸ばしていて、雨に散る花びらが、濡れて濃い灰色に染まったアスファルトを彩っていた。色の違う地面は何かの目印のよう。未確認飛行物体が降りてきて、そこからわらわらと出てきた小さなグレイの宇宙人が、桜の木の下に集う少女たちをさらっていく。雨宿りの彼はそんな想像をして、表情は変えなかったが、笑みを含んだ息をついた。

 少女たちはひとりひとりスコップを持っている。ある者は肩に担ぎ、ある者はそれを杖にして楽な姿勢を取っている。そのうちに彼女たちはだらだらと桜の木の下を掘り始める。それは今の季節の風物詩のようなものだった。桜の木の下には死体が埋まっている。桜は一年をかけて死体の養分を吸い、翌年の花を、血を薄めたようなやわらかな赤に染める。少女たちは死体を埋める。少女たちが自分たちを埋める。少女という死体を埋める。雨のにおいが街を覆っているけれど、彼女たちのそばに寄れば、防腐剤のレモン香を確かめることができるかもしれない。

 ざくんざくんというスコップと土が奏でる音が、雨の音と混じって彼の耳にまで届いた。環境音楽にも似たその音に、彼はほとんど無意識の内にジャケットのポケットを探っていた。煙草を探したことに遅れて気づく。自分に煙草を吸う習慣がないことにも、また少し遅れて気づいた。

 少女たちの靴やソックスやスカートが土で汚れる。浸食するように汚れていき、セーラー服にどこかパンクっぽい模様を作り始めたところで、彼女たちは満足したようにスコップによる環境音楽の演奏をやめた。

 雨が小降りになってきたので、彼はスーパーの庇から出て、角にある自販機までコーヒーを買いにいった。また庇の下に戻ってきたとき、少女たちは桜の木の下、囲むように突き立てられたスコップの檻の中で、携帯用のゲーム機に目を落としていた。ある少女は桜の木に立てかかるように背中を預け、ある少女はその足元に腰かけ、ある少女は腰かけた少女の太ももを枕にするように半ば寝転んでいた。みな一様にくつろいだ様子だった。

「……モンハン?」

 彼はコーヒーのプルタブを立てながら、ぽそりと呟いた。彼自身はほとんどゲームをしないため、流行りのゲームにはまるで詳しくない。携帯ゲームでモンスターハンターができるのかどうかも曖昧だった。

「モンハンはもう古いのかな」

 彼はコーヒー缶に向かってまた呟く。少女たちをぼんやりと眺めるうち、ふいに、「誰が埋まるかをゲームで決めている」という考えが頭に浮かんだ。ゲームの結果で誰が埋まるかを決める。勝った者が埋まるのだろうか。それとも負けた者が埋まるのだろうか。

 少女たちがゲームに興じている間にスーパーには明かりがつき、店員たちが開店の準備を始めたようだった。裏から正面に回ってきた警備員の人が彼を見つけ、それから彼が見ているほうに目を移した。

「ああ……」

「はい」

「役所に連絡しておいたほうがいいのかな」

「そうですね。一応、市民の義務らしいですし」

「まあ、そうか」

 彼と同様、警備員の人もそうすることにあまり乗り気ではない様子だったけれど、電話をかけるためにかスーパーの中に入っていった。彼は缶コーヒーを飲み干す。雨はもうすぐ上がりそうだった。ほどなくして、太ももを枕にされていた少女が小さくガッツポーズをした。小さな歓声と悲鳴が上がる。ゲームの勝者と敗者が決まったらしい。がっかりとうなだれる子もいれば、その子をなぐさめるように微笑みかける子もいる。

 太ももを枕にされていた少女が、太ももの感触を楽しんでいた少女に対してなだめるような様子で声をかけ、太ももの上にあったその子の頭をのけて立ち上がり、地面に空いた穴の中へと入っていく。仰向けに寝転んで、両手をお腹の上で組んだ。どうやらゲームに勝った子が埋まる決まりだったらしい。別の少女が彼女の隣に横たわり、もうひとり入って、その穴は満員になった。

 残った少女たちがスコップで土を被せていく。彼は空の缶コーヒーを指先で掴んでゆらゆらさせながら、ただそれを眺めている。

 埋まりかけの少女たちが、埋めている少女たちに向かって手を振っている。埋めている少女たちがそっと泣き真似をする。手の甲を目の下に当て、涙を拭うふり。彼女たちの頬が泥で汚れ、上がりかけの雨がそれをにじませていた。

 役所の人が到着するころには、三人の少女はほとんど埋められていて、古い怪奇映画のワンシーンのように地面から何本かの手が生えている状態になっていた。役所の人は警備員の人とスーパーの中でしばらく話をして、外に出てきて雨宿りの彼と少し距離を置いてたたずむ。お互いに何となく会釈する。こうしたとき、どういう反応をすればいいのかはなかなか難しい。諸説あるけれど、そのどれもが正解で、そのどれもが不正解であるとも言える。役所の人は少女たちが作業を終えるまで待つつもりのようだった。雨はほとんど上がり、ごくたまに彼の視界のどこかに白い線を走らせる程度になった。

 スコップワークス。そんな言葉があるのかどうか彼にはわからなかったけれど、少女たちの作業はそろそろ終わりに近づいているように見えた。スコップを扱うひとりが、濡れて額や頬に貼りついた髪をかき上げる。耳の後ろに引っかけ、けれどいく筋かはまたぱらぱらと流れる。彼は露わになった少女の耳につい目をやってしまう。

 不運にも埋められなかったほうの少女たちは、このあと役所の人に連れていかれ、ピアスをされることになる。そうした印をつけられてから、また街中へと解放される。耳の欠けた野良猫と同じように。かわいいピアスだったらいいよね、と彼はそう願うでもない思いを胸の中で呟く。

 雨が上がり、雲に切れ間ができたころ、地面にスコップが突き立てられた。すぐ下には三人の少女たちと三台の携帯ゲーム機が埋まっている。その上にもはらはらと桜の花びらが舞い降りて、春らしいやわらかな彩りを添えていた。

 役所の人がのんびりと散歩するように少女たちに近寄っていく。車道を挟んだ向かい側、役所の人間なので道路交通法を守らなくてはいけないらしく、横断歩道まで少し遠回りをする。雲の切れ目から日が差して、ひと仕事を終えた少女たちを照らし始める。まるで舞台か何かのスポットライトのように彼には感じられた。

 もうすぐ舞台の幕が下りる。満場の拍手のあと、ざわめきがあり、また幕が上がり、カーテンコール。埋められていた少女たちと埋めた少女たち。彼女たちはみな桜の季節のセーラー服を着て、それを雨で濡らし、泥で汚し、互いに手に手を取りあって一列に並んでいる。腰を折って深くお辞儀をする。鳴り響く拍手の中、再び幕が下りていく。

 

旅の記憶

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 瞼を触る。右手の薬指と小指を軽く折り曲げ、人差し指と中指をゆるく伸ばして、その指先で瞼をなぞっていく。左瞼、右瞼と滑らせて。片方ずつで目を瞑って。顔の横に持ってこられた指先は、細い楕円を描いてまた左瞼を上にとまった。彼女はそのまま目を開け、左の眼球を触る。指先がうっすらと涙で濡れた。

 濡れた指先を親指でこすりつつ右手を皿の形にし、左目のすぐ下に置いた。瞬きもせずに目を見開いていると、ぽとりとてのひらの上にまあるい球体が落ちた。球体は白地で、一部分が黒く丸く染まっている。瞳は夜闇のような深い色で、じっと見つめていると呑み込まれそうに感じるかもしれない。

 彼女の目の前にはセーラー服姿の少女が佇んでいる。百年前から同じ形のような、古くささと懐かしさを感じさせるセーラー服で、彼女の存在も同じように古そうだった。目を離した隙に、少女は一体の小さな人形に変化して彼女の足元に落ちている、そんな想像も現実になりそうな雰囲気があった。

「じゃあよろしく」

 彼女が眼球の乗った右手を差し出しながら言う。

「うん」

 少女は小さく頷き、彼女の右手の横に自分の右手を並べた。

 眼球は少女の手の上に落とされ、彼女がそれをぐいぐいと少女のてのひらに押しつけていく。果たして少女のてのひらには瞼が作られ、長く細い睫毛が生え揃い、彼女の左目は少女の手の中で動くことになった。

「お土産買ってきてね」

 そう言って彼女は中に何も入っていない左目を閉じ、少女は少しめんどくさそうにしながらも頷いた。

 

 電車を乗り継いで遠出をする。二人座席のシートの窓際に腰を降ろし、隣に黒い革の学生鞄を置いている。少女には旅をする趣味も、時間をかけて移動をする趣味もなかったが、年の離れた友人の頼みを聞くくらいの心の広さは持っていた。出不精で旅好きという、人間らしく矛盾した性質を持った友人。少女は思い起こして苦笑を浮かべる。すぐ横の窓にその苦笑を映し、それを自分の目から隠すようにして右手を置いた。右手の五つの指に窓の硬さと冷たさを味わわせ、てのひらは窓から少し離す。窓の外には山の緑が広がっていて、てのひらの目が眩しそうにする。

 少女は右手を窓につけたまま、左手で器用に学生鞄を漁り、カバーのついた文庫本を取り出した。膝の上で開ける。本は「小説家になろう」という小説投稿サイトから書籍になったもので、異世界の住人が日本の洋食屋の料理を味わうという内容だった。少女はそれに自分の目を落とし、読み進めながら、今日の晩御飯はエビフライにしようと決めた。

 

 目的地に到着するころには日はだいぶ傾いていた。宿を取ってもいいが、飛び込みで泊まれる宿があるのかどうかはわからなかった。どうしようなければ「隙間」に手を差し込んで、基盤ごと換えてしまうという裏ワザも少女には使える。もちろんそれは少女にしか使えない反則のようなやり方で、少女自身も情緒がないと感じるものだった。

 そうならないように少女は努力する。五回までなら努力する。四つ目に訪ね入った温泉宿で泊めてもらえることになり、少女の学生鞄に常備してある基盤は、今回は使わずにすんだのだった。あと一つ断られていたら基盤を換えることを少女は選択しており、ある意味での世界の危機はぎりぎりで回避されていた。

 少女は温泉に浸かったあと、宿の食事を断って定食屋を探した。エビフライ定食でお腹を満たすと、近くの川辺に向かってのんびりと歩き始める。その途中で、ドーンと空が大きな音を鳴らした。夜になりかけの群青色の空に、赤や青や黄色の光が混じる。花火だ。

 少女と同じように川辺に向かって歩いていた人たちが足を止めた。ある者はただ立ち尽くして空を見上げ、ある者は携帯用の端末を顔の前にまで持ち上げた。少女も立ち止まり、右手を空に向けて翳した。てのひらの目を花火に向ける。この旅の一番の目的を達したことに、少女は肩を下げるようにして息をついた。

 手を翳したまま少女はまたゆっくりと歩き始める。あとはお土産だなあ、と少女は胸の中で呟く。何がいいだろう。宿で売ってた八ッ橋っぽい何かがおいしそうだった。でもそれだとお土産を頼んできた彼女は満足しなさそうだ。我儘なことだと思いながら、少女は目の端で見つけた夜店でかき氷を買った。

 花火は夜空を彩り続けている。考えるのはあとでもいいか。少女はそう思い、花火を見ながらかき氷を使い捨て透明スプーンで掬い上げ、シャクリとする。それから思い出したように、また右手を夜空に翳した。

ペンギンのサチさん

 

 

ペンギンを蒸す機械アンソロジー参加作品です。

 

 

お散歩ペンギン

 

 ペンギンは人を襲わない。そんな凶暴なペンギンは見たことがない。ネットでも現実でも。けれども皇帝ペンギンはどうなのだろう。皇帝という名に恥じず、邪智暴虐でメロスを激怒させたりもするのだろうか。

 隣でぺたぺたと歩いているサチさんは決して邪智暴虐ではなく、ペンギンの中でも大人しいほうだと思う。なので首輪をつけていない。けれどこの子が人の姿をしていたなら、首輪をつけてリードでつないで、恥ずかしそうな横顔を眺めながら一緒に歩くのも素敵そうだと思う。

 想像して心躍らせる。最近ようやく暖かくなってきたから、人になったサチさんには夏服のセーラー服が似合いそう。白い。白い。襟が青い。靴下とローファだけを身に着けたサチさん(人)も想像するけれど、心躍り過ぎてしまうのでそれはひとまず忘れよう。

 駅ビルの地下を歩いている。少し遠回りな、休日で暇なときなんかによく使う少し変わった散歩ロードだ。複雑に入り組んでいて、迷子になる可能性と引き換えに、飽きのこない散歩時間を約束してくれる。たまに同じように散歩中の猫やワニやオオサンショウウオなんかとすれ違う。ワニは首輪をしていた。牙がなかなか凶悪そうなので、そのときは一応サチさんを引き寄せて反対側に。

 そうしたこと以外はサチさんに道案内を任せることにしていた。急に横道に入ったりして知らない店を見つけたりもする。駅ビルの地下にはよそで見かけることのない不思議な店がちらほらとある。と思っているうちに首輪屋の前を通りがかった。

 首輪屋?

 靴屋を思わせる棚ばかりの店に、首輪がずらりと並べてあった。棚には「犬用」「猫用」「ワニ用」などのプレートが貼りつけてあり、その中に「人用」と書かれたものもあって、非常に心惹かれるところもあったのだけれど、サチさんが気にせずぺたぺた歩いていくので断腸の思いで追いかけていく。ぱっと見ではペンギン用の首輪はなかった。残念ながら、と胸の中で呟いて、特に残念でもないよね、とやはり胸の中で付け足した。

 人になったサチさんの後ろ姿を想像する。リードの輪っかを持ったわたしの少し前を歩く、首輪と靴下とローファだけを見につけたサチさん。両腕を後ろにやって、背中の腰の上辺り、右手の指先を左肘に引っかけている。小さな胸を張って、興味深げに周りを見渡しながら歩を進める。

 ぺたぺたぺたと歩いていたサチさんが、ぺた……とふいに立ち止まった。あるお店の看板の前だった。看板にはペンギンの絵が描かれていた。食べ物屋さん、定食屋さんのようだ。

 看板をよく見てみると、メニューには「ペンギンもやし」の文字があった。蒸したペンギン肉ともやしを一緒にいただく料理らしい。他にも「ペンギンのテリヤキ丼」や「ペンギンのタタキ定食」なんかもある。どうやらペンギン料理の店らしい。サチさんが立ち止まってはいけない店だ。そっとさりげなくサチさんを促して、散歩を続けることにする。サチさんも特に抵抗をすることなくまた歩き始めるけれど、何故だか未練があるらしく、何度も振り返っていた。

 いや、食べられちゃうよ、と思いながら促し促し歩いて、角を曲がってお店が見えなくなったところで、ほっと息をついた。それにしてもペンギン料理の店なんてあるのか。駅ビルの地下は何でもあるね。ペンギン肉というのはどんな味がするのだろう。そう特に食べてみたいとも思わないけれど、サチさんなら食べてみたい気がする。サチさんの肉なら……と想像して、お昼どきなのもあってお腹が鳴った。

 究極の愛はカニバリズムだと誰かが言っていた。ずっと昔に生きていた有名な誰かが。あるいはヘンゼルとグレーテルが。サチさんと首輪とリードを思い浮かべる。裸体のサチさんを。なめらかな曲線を描く細い背中を。きっと思い浮かべてはいけない。

 お腹が空いたので視線をさ迷わせて、お昼ご飯を食べられる店を探した。

「……さかなさかなさかなー」

「がっががー」

 何となく記憶の中にある古い歌を口ずさむと、サチさんが合唱じみたことをしてくれた。

 

 

ペンギンを蒸す機械

 

 ペンギンにはきゅるりというイメージがある。

 あるの?

 すぐに自問が返ってきた。

 あると仮定して、きゅるりと歩くし、きゅるりと手足をパタパタ動かすし、きゅるりという鳴き声をあげるのだ。でも大体、くえーっとか、がーっとか鳴くのだ。手足はパタパタだし。そんなどうでもいいことを考えながら、わたしは呪術系百均のドアをくぐった。

 呪術系の百均には呪術系の物が置いてあって、どこかヴィレッジヴァンガードみたいな雰囲気が漂っていた。その中で、ペンギンケース(一分の一スケール)とペンギン印の電子基板と単三アルカリ電池を求めてさまよい、そういえば大きめのスプーンがなかったなとペンギン印じゃない普通の大きめのスプーンも一緒に籠に入れて、レジに持っていった。

 家に帰ってから大きめのスプーン以外のものをネットの解説ブログを見ながら組み合わせ、ペンギンを蒸す機械を完成させる。ペンギンを蒸す機械とはペンギンを蒸すための機械である。作っている最中、わたしの相方であるペンギンのサチさんがもの珍しそうに覗き込んでいた。

 サチさんとは動物の卵系百均で出会い、孵化してから早三年半、でもまだまだ子供で好奇心旺盛。ペンギンの平均寿命は二十年くらいというのをこれまたネットで見かけたことがあるので、サチさんは今、十四、五歳といったところだろうか。思春期真っ盛りである。青春真っ盛りの女の子である。

 その思春期の女の子を今からケースに閉じ込めて、蒸し上げることになる。そのことを考えると胸をきゅっと痛めつつもときめいてしまう。背徳的な悦びに背筋が震える。隣で人間に換算にして十四、五歳の女の子が小首を傾げている。これからそんな子を自分と同じ形をしたケース閉じ込めて、もっと不思議そうな顔をさせるのだ。

 蒸し上がった彼女はきっと蒸す前よりもほんのり茶色がかっている。煮玉子みたいに燻製みたいに。茶色というのはおいしい色だ。指でつつくと弾力があって、仄かな抵抗があって、湯葉のような皺が入る。ぐっと押すと破れて、とろりとした薄緑色の液体が零れ出る。そうして薄緑色の液にまみれた、人みたいな形をした女の子がサチさんの薄皮を破って這い出てくるのだ。腕が六本あって、一つ目とかのサチさんとか。あるいは目は五つくらいあるサチさんとか。腕は触手になっていてもいいかもしれない。異形の姿となったサチさんを想像すると二ヤついてしまう。ちょっとうっとりもする。

 ふいにサチさんが、がーっと鳴いた。かわいい。きっと人みたいになったサチさんもかわいいだろう。きゅるりというイメージじゃなくなってしまうのは少しばかり残念だけれど。

 

 

ペンギンの匣

 

 匣の中には綺麗なペンギンがぴったり入ってゐた。これはとある有名な小説のパクリだけれど、パクリというのが聞こえが悪ければ、オマージュとでも言い直そうか、それはともかく箱の中には一匹のペンギンが入っていた。ペンギンは箱の中からわたしを見つけると、一声、がーっと鳴いた。

 

 少女たちはぴったりと同じだった。同じ顔をして、同じ形をして、同じ空気をまとっていた。彼女たちは素肌を薄緑色の液体で濡らし、すぐそばにいる、ぴったりと同じものと目を合わせる。触れ合い、お互いを慈しむように、確かめるように、混ざり合っていないことを悲しむように、抱き締め合う。

 

 何故箱にペンギンが入っているのだろうか。何故「ほぅ……」と息を漏らす少女ではないのだろう。心底不可解に思いつつも、わたしはペンギンに手を伸ばした。猫や少女にそうするように、目の上辺りをそっと撫でる。手をすべらせる。猫のものでも少女のものでもない濡れた手触りがあった。嗅いでみると魚のにおいがした。ペンギンは猫や少女のように引っ掻いたりはせず、ただぴくりと身を震わせた。

 

 閉ざされ、開かれた白の空間だった。広くもなく狭くもなく、それが心地よいと感じる人もいるかもしれない。そこに薄緑色の、血液みたくわずかに粘り気のある液体が垂れ滴り、抱き合う少女たちの肌を濡らしている。羊水のよう。生まれたばかりのよう。薄緑色の羊水だけを身にまとった少女たち。

 

 ペンギンはまた口を開き、がっがーっと二声鳴いた。やはり鳴き声は「ほぅ……」ではなかった。箱の中から少し顔を出して、きょろきょろと辺りを見渡すと、大きく口を開き、しかし今度は鳴かずに、何かを啄むようにして口を閉じた。その仕草を見て、そうか、ペンギンも鳥なんだ、とふいに思った。それは鳥が何かを食べる仕草だった。

 

 片方の少女がもう片方の少女の頬をぺろりと舐める。舌の赤にうっすらと緑が混ざる。もう片方は片方の耳元に、はぁっとゆるやかな吐息を漏らし、お返しとばかりに、耳のそばの頬に唇と舌先をすべらせた。そうして互いになめらかな粘液をぴちゃぴちゃと鳴らし、ようやく安心したように微笑み合う。

 

 予感によって振り向くと、背後にあったはずの風景が、その一部がなくなっていた。白のペンキをぶちまけたようだった。たった今ペンギンが食べたのだと、本能的なところで理解する。風景を。空間を。世界を。食べた。ペンギンがまた大きく口を開ける。箱に尻尾みたくコンセントプラグがぶら下がっているのを、目の端が見つけた。

 

 やがて少女たちじゃれ合うのをやめ、仰向けに寝ころがって何もない空を見上げた。望んでいた夜空はなく、ただの白があり、少女たちは眩しそうに、面倒そうに目を細めた。しばらくは何も考えずにいたけれど、そのうちに自分たちが生まれ出たときのことを思い起こしはじめた。

 

 本能のように手近な壁にあったコンセントに箱のプラグを差した。差してからすぐにペンギンは開けていた口を閉じ、そうして背後の空間とわたしの半分が食べられた。箱から白い湯気が立ちはじめているのを残った片目で見つめた。ペンギンがまた口を開けた。きっと世界のすべてがこのペンギンの中におさまるのだろう。

 

 薄緑色の羊水の海に満たされた空間だった。沸き立つように熱く、こぽこぽと泡が立っていた。その中で少女たちは生まれた。骨が生まれ、臓物が滲み出て、肉が巻きつき、皮膚が貼りついた。人の形になった少女たちは泳ぎはじめた。羊水の海は広大だったものの、泳ぐうちにやがて果てに辿り着いた。果ては湯葉のような膜だった。

 

 チン、と何もない空間で箱が鳴った。箱はペンギンを蒸す機械であり、自らの役目をちゃんと果たしたことを告げたのだ。蒸し上がったペンギンはふやけており、表面には湯葉のような皺が入っていた。ペンギンの首元辺りの皺が突っ張ったり戻ったりしていた。まるで誰かが内側から指でつついているかのように。

 

 少女の片方が身体を起こして辺りを見渡した。薄緑色の液体に濡れた箱と、やぶれた何かの動物の皮があった。その皮は白と紺色で構成され、魚のにおいがした。少女は面倒そうに手を伸ばし、皮の中を探った。そこから夜空を取り出すと、白以外の何もない空に放った。もう一度仰向けに寝転がると、そっと隣の少女と手に自分の手を重ねた。少女たちはただ静かに星の煌めく夜空を眺める。

 

 

成猫ペンギン

 

 少し汗ばむ夕暮れに欠伸がもれた。窓の外のうっすらとオレンジ色に染まった風景を、無感動に、ほんの少しだけ見惚れながら部屋の中を横断する。

 逢魔が刻はいつだっけ?

 部屋の隅に腰を下し、壁に背中を預けた。

 昼と夜の境目。夕方と明け方の時間。

 確かそうだったはずだ。起きたときに身体が痛くなることを予感しつつ、うたた寝に支配されるために瞼を閉じた。また欠伸がもれて、収めて、閉じた口の隙間からそっと息をこぼした。眠気がしっとりと静かな雨のように降りかかり、肌が空気に溶けていくような幻想を抱きながら、眠気に足の先で触り、そのまま身体を沈めていく。わたしはわたしの身体から抜け出して、また一つ欠伸をもらしつつ、天井辺りを漂うことにする。

 シャワーの音は身体が眠気に沈み込む前から聞こえていた。同居人のサチさんがバスルームにいる。濡れた肌とそこに流れるいくつもの水滴とタイルに当たって弾けたその欠片が裸の足を彩るところを脳が自然と想像する。意識の脳とは何だろう。意識の中に脳なんてどこにあるのだろう。自問には「夢の中」という詩的な自答が返ってきた。

 バスルームのドアの向こうから、微かに鼻歌のようなものが聞こえてくる。鼻歌とシャワーが弾ける音がうっすらと混ざり合い、環境音楽にも似たものを作り出していた。上機嫌そうなサチさん。シャワーを浴びるサチさんの御姿を思い浮かべる。十代半ばのまだ途中の細い肢体をシャワーから出るお湯の線が濡らしている。一番上の右手でシャワーヘッドを持って肩と首にお湯を当て、一番上の左手と二番目の右手で胸やお腹をなぞり、そうして集められたあたたかな滴が滑り流れて彼女のしなやかさを描いていく。一番下の右手はだらりと下を向いていて、その指先からも身体の表面を流れてきた滴がたらたらと落ちていく。シャワーから流れ滴るお湯とサチさんの五本の腕が、互いが互いを弄び合う。

 わたしがそんな光景を想像して、まったくもって決して全然みだらでない気持ちで安らいでいると、カタンと何かが落ちる音が聞こえた。バスルームのドアの向こうから。軽い音。サチさんがシャワーヘッドを落とした音だろうか。それと同時に鼻歌も途切れていた。それからすぐに、ぱしゃんと何かが弾けるような音がした。大きな水風船が、まるで人間ほどの大きさの水風船が割れたような音だった。

 期待のような不安のような気持ちを抱きながら床近くまで潜ってバスルームのほうを見ていると、しばらくして隙間を空けるようにドアが開き、その隙間から小さなペンギンが、成猫サイズのペンギンがひょいと姿を現した。ドアから出てぺたぺた廊下を歩きはじめる。その成猫ペンギンのあとを追うように、またもう一匹の成猫ペンギンがドアの隙間から顔を覗かせる。そうやってエンドレスに成猫ペンギンが廊下に出てくる。板張りの廊下をぺたぺたする十数匹の成猫ペンギン。その光景を見ながらわたしはバスルームの様子を思い浮かべる。弾けて中身のなくなったサチさんの皮を、タイルに落ちたシャワーがぱたぱたと濡らしている。

 ペンギンの群れは廊下を進んで、やがてわたしが眠りこけている部屋に辿り着いた。ペンギンたちはわたしの身体を取り囲み、顔を見合せて頷くと、まるで仮面ライダーに襲いかかるショッカーのように一斉に鰭フリッパーを振るい始めた。世代によっては「……ショッカー?」となる可能性を考慮しなくもなかったけれど、他にちょうどいいのを思いつかなかったのだ。

 ぺちぺちとされるわたしの身体。あまり痛そうでもない。一叩きごとに曲線の三角の形に身体がしっとり濡れる。ぺちぺちとする成猫ペンギンたち。あれはきっとサチさんたちなのだろう。

 あははっと軽く笑って、わたしは身体に向かって空間を泳ぎはじめた。身体に戻って目を覚ますことにした。バスルームで蒸されてペンギンになってしまったサチさんたちを愛でるために。

 

 

乾燥機の中のペンギンたち

 

 サチさんはペンギンに似ているといえば似ている。何となくのたたずまいが。あえて言うならば、かわいいところとか、何を考えているのかわからないところとか、ときどき攻撃的になるところとか、本能的に愛でたいと思えるところとか。そんな自分の思考を唐突だなと思う。

 雨降りの日の夕暮どき、サチさんは乾燥機の前で丸椅子に立膝で座って洗濯物が乾くのを待っている。制服のブラウスにプリーツスカート。左右ともに一番上の腕だけ袖を通して、それ以外の腕はブラウスの裾からにゅうっと出していた。五本腕の人用のブラウスなので、通す袖が足りないということではなく、ただ単にだらんとしているようだった。ボタンも二つくらいしか留めていない。裾が少し捲れてちらちらとおへそが覗けてエロかわいいので全然オッケーである。立膝をしているのでスカートの裾からも肌色の滑らかな曲線が伸びている。素敵なものであった。

 部屋の片隅からそんな素敵なものを真顔で眺めていると、サチさんは顔の真ん中にある一つ目をちらりとわたしのほうに向け、ちょっと不機嫌そうにしながらまた乾燥機に視線を戻した。ごうんごうんと乾燥機は回る。サチさんがぐるぐる目にならないか心配だった。ぐるぐる目のサチさんもそりゃ当然かわいいのだけれど。

 わたしは部屋の片隅からサチさんの背後に移動して、サチさんと同じものを眺める。乾燥機の中では洗濯されたTシャツやタオルやトートバッグなんかが回っている。プリントされたペンギンの柄がちらちらと見えていた。そう言えばサチさんはペンギングッズを集めるのが趣味だった。サチさんとペンギンが似ていると感じたのはそこからの連想かもしれない。

 乾燥機の中でペンギンが回っている。どこかを散歩している様子のペンギンが。ペンギンの形をしたケースとそれを覗き込んでいるペンギンが。冷蔵庫のような四角い箱の中から顔を覗かせているペンギンが。どこかの通路を連れ歩く十数匹のペンギンの群れが。そんなゲシュタルト崩壊を起こしそうなペンギンたちが乾燥機の中で平和そうにごうんごうんと回っている。