三つ編み少女と白い女の子

 彼女のいるベンチは木の茂みで半ば隠されて、わたしと彼女はお互いを確かなものだとは感じてはいない。木の葉が揺らいでお互いの姿を完全に隠してしまうたびに、その存在が途切れてしまう。そんな想像が案外と楽しかった。シュレーディンガーの猫のようで。
 黒いコートを着た三つ編みの女の子だった。中学生くらいだろうか、公園のベンチに腰かけて、文庫本を広げていた。白いワンピースに白いコートを着た小学生低学年くらいの女の子が、その隣で足をぶらぶらさせていた。かまってほしそうに、でも本当にかまわれると嫌がりそうに、彼女の横顔を見上げている。
 文庫本は古本屋で買ってきたかのように日に焼けており、でもそれは彼女のたたずまいには似合っていた。少し大人びた雰囲気の彼女。隣の小さな女の子と相まって、彼女たちはまるで祖母と孫のような雰囲気だった。
 ふいにワンピースの女の子はベンチから滑り降りて、跳ねるように駆け出した。彼女はそれをちらりと見ると、やっぱり孫を見ているような笑みを浮かべ、また文庫本に目を落とした。
 わたしは目だけを動かして女の子の姿を追う。背中に公園の街灯の丸い感触があり、まだ灯っていないせいか少し冷たかった。
 女の子は散歩途中の犬に駆け寄っていく。それを見つけた飼い主が、女の子のためにリードに繋がれた犬を引きとめた。黒くて大きくて耳の垂れた犬だった。物おじせず手を伸ばす白い女の子と、伸ばされた手に軽く鼻を向ける黒い犬。大人しそうな、少しさみしそうな目をした犬だった。
 自分と同じくらいの大きさの犬を撫でながら、女の子は鳴き声を上げた。それはわたしの耳にまでは届かなかったけれど、口の形からすると、どうやら猫の鳴き声のようだった。飼い主の目が細められ、その口元が笑みを作るのが見えた。
 時折鳴き声を上げながら、ひとしきり黒い犬を撫でたあと、女の子は犬と飼い主に手を振った。名残惜しそうな表情がかわいらしかった。
 ミィ。
 そう呼びかける声がして、女の子は三つ編みの彼女のほうに顔を向けた。白いワンピースが彼女の座るベンチのほうに駆け戻っていく。彼女は文庫本をコートのポケットに仕舞って立ち上がる。それと同時に女の子は彼女の胸へと飛びついた。すると、白いコートとワンピースが白い毛皮に変わり、小さな女の子はもっと小さいものに変わった。
 黒いコートの彼女が受けとめたのは、白い毛皮の子猫だった。子猫は彼女の胸の中で彼女を見上げ、わたしの耳にまでは届かない鳴き声を上げる。ミィ。とでも鳴いているのだろうか。彼女がその頭を撫でてやると、子猫は幸せそうに目を細めた。そのまま子猫を撫でながら彼女は公園の出口へと歩き始める。途中、ちらりとわたしのほうに目線を寄越す。そのいたずらっぽい目の色に、わたしは口元で浮かべる笑みを返した。
 ときどき見かける不思議な光景を見届けてから、わたしは自分の上着のポケットを探った。ようやく街灯がじりじりと音を立てて、人工の灯りが地面に落ちた。ポケットから丸い機械を取り出す。鎖がじゃらりと鳴った。懐中時計。一つ年上の女性にもらったもので、もらったときから壊れていて針は動かない。わたしに似合っているものなのだそうだ。
 わたしはそれに目を落とし、時間を確かめた気持ちになって、そうして街灯から身体を離し、公園の出口へと足を向けた。

王道の恋愛ストーリー

 もう緑が混じる散りかけの葉桜を見て、雨の日の濡れた桜のつぼみを思い出すのは変なことだろうか。隣を歩く彼にそう言うと、変な顔をされるだろうか。変な想像をされるかもしれない。そう思うと、喉の奥が小さく笑みの音を立てた。濡れた桜のつぼみは、個人的には満開に咲いた桜よりもかわいらしいと思う。誰かの同意を得られるかどうかはわからないけれど。
 夜道だけれど、繁華街に近い大通りなので明るかった。わたしを私鉄の駅まで送ってくれている彼は、車道の信号の光に目をやっていた。ほろよい気分。時期の遅い花見の席で何となく隣同士になり、何となくたらたら話していたら、からかうような生温かい目で見られたり、軽く囃し立てられるようなことを言われたりもした。悪気がないのはわかっているけれど、そうされるとどことなく居心地が悪い感じになる。きっと彼もそうだったのだろう。からかわれるままに駅まで送っていかれることになった。
 歩きながら彼の横顔を覗き見る。花見のとき、誰かと誰かが話すアイドルタレントの移り変わりという、今はもう内容を忘れてしまっている話を聞いていたときにも、彼の横顔を覗き見ていた。彼の顔が誰かに、というか何かに似ている気がして、ずっと考えていたのだけれど、信号で立ち止まったときに唐突に思い至った。
 犬。黒い犬。いつだったか旅先で見た、黒くて大きな耳の垂れた犬。どことなくさみしそうな目をしていた。
 ああ、なんだ、と肩の荷が下りたような気持ちで、ふっと息をついた。彼の横顔。黒い瞳。酔っぱらっているせいか少し潤んでいて、そういったところもそっくりだった。
 彼のほうが背が高く、すぐそばにいるので、わたしの首はシャフ度のようになっている。このままだと首がつりそうだなあとのんびり考えていると、彼が気づいて顔を向けて、口元を笑みにした。
「何、ですか?」
 わたしのほうが彼よりも二つ年上で、彼はわたしに対しては大体敬語で話す。酔うとそれが崩れることもあるけれど、今は大丈夫らしい。
「犬に似てる」
 何も考えず、口走るようにわたしは言った。
 信号が青になり、横断歩道を渡りながら旅行に行ったときの話をした。一緒に旅行するはずだった相手に仕事が入って、一日暇ができたこと。温泉に入って電車に乗って、見知らぬ適当な駅で降りて何となく猫を追いかけたこと。途中にあったスーパーの前に黒くて大きな犬が繋がれていて、大人しかったので撫でてみたこと。
「おんなじ目をしてる」
 さみしそう、とは言わなかった。
「そう、ですか……」
 何だか困ったような反応をされて、少し楽しいような気持ちになる。
「からかわれたね」
「そうですね」
「……そういうの、苦手?」
 反応が微妙だったので、また少しシャフ度をしてみる。
「……あんまり、うまくいったことがなくて」
「そっか」
 信号を渡って少し歩いて、左に曲がる。駅前の明かりが見えて、目がちかちかした。
 ――次はうまくいくかもしれないよ。
 そう言おうとしたところで、彼が先に口を開いた。
「どうも、相手を犬猫みたいに扱ってしまうみたいで」
「……ダメなの?」
 ダメかどうかは知りませんけど。と、そう言ってから、彼は迷ったように黙り込んだあとに続けた。
「あんまり人間扱いされてないように感じるみたいで」
「んー……、猫っかわいがりしちゃうんだ」
「あー、そうですね。そんな感じです」
 駅前に着いたので立ち止まり、少し端に寄って、何となく向き合った。彼はJRなので、ここを通り過ぎてまた五分ほど歩く。真っ直ぐ向くと彼の少し潤んだ目があって、わたしはつい、ふふっと口元で笑ってしまった。
「何ですか?」
 彼もつられて笑みを浮かべる。
 いつだったかネットで見た、大きな犬と子猫が仲よく寝そべっている写真、それを思い出したのだ。
 ふいに大きな犬を抱きしめたくなった。黒くて大きくて耳の垂れた、少しさみしそうな目をした犬を。子猫のようにじゃれついて、噛みついたり引っ掻いたりして、大きな犬を困らせてみたくなった。わたしの腕がそうしたがって、ぴくりとだけ動いた。
 ――少し屈んでみて。
 そう言いかけた言葉を、静かな息にして吐き出す。
「それじゃあ、また明日」
「はい、また明日」
 旅先で出会ったあの大きな犬を、撫でるだけじゃなくって、ちゃんと抱きしめておけばよかったと思った。そうしなくてよかったと、彼の眼を見ていて思ったりもした。

旅先で突然偶然一日暇が出来てしまった女の子のお話

 温泉とお城があるところ。わたしがオーダーしたのはその二つだった。旅行の計画者はパンフやチラシやインターネットを駆使して、ちゃんとわたしのオーダーを叶えてくれた。けれども、その本人は急な仕事が入ったとのことで一日遅れるそうだ。
 巡り合わせが良いのか悪いのか。わたしは露天風呂の湯をてのひらで掬い上げながらそう胸の中で呟いた。触り心地のよい湯が、てのひらの端や指の隙間からこぼれ落ちていく。もう三月の半ばも過ぎたのに空気はひんやりと冷たく、うっすら白い湯気が立ち上り、木の屋根と竹の塀の隙間からは緑が覗き、遠く鳥の鳴き声が聞こえ、時間帯の問題なのか広い浴場の中に一人で、そんなのが何だかちょうどよかった。
 ほおっと息をついて、今日はこの後どうしようかと思う。お湯の中で片膝を抱えると、ちゃぽんと温泉らしい音がした。湯の上に出た丸い膝が冷たい空気に触れて、冷たかった。小一時間、ふやけるくらいお湯につかっていても一日はまだ終わりそうもない。旅館の部屋でただぼーっとするのもいいのだけれど。
 脱衣所のほうから人が蠢く音が聞こえてきて、それを機にわたしは湯の中から身体を持ち上げた。ぺたんぺたんと濡れた足跡をつけながら脱衣所に向かい、しゅうっと戸を滑らせると、中には四十前くらいの女性と小学の真ん中くらいの女の子がいた。女の子は髪をピンクのゴムで縛っていて、母親らしい女性がゴムを解きかけているところだった。
 わたしは軽く会釈してその背後を通り過ぎ、手首につけた白いゴムを指に引っかけて外し、ロッカーの鍵を手に取った。86番。それを挿してカチンと鍵を鳴らした。86。その数字が好ましく思えるのは何故だろう。そんな特に理由もなさそうなことに思いを巡らせながら、身体を拭いて、髪の水気を減らした。
 ほこほこする身体を手で扇いだりして、湯冷めしないように部屋でしばらくぼーっとしてから、出かける決意を固めた。
 一応持ってきたマフラーが役に立った。必要なものだけ小さな鞄に詰めて、他の荷物を旅館に預け、完全防備した身体を、暖かい建物の中から、やっ、と投げ出した。
 どこに向かおうか、と考える前に足は駅のほうに向かっていた。知らない場所を道に迷い気味にぶらつくのも嫌いではないのだけれど、今日はさすがにちょっと寒かったらしい。駅前の繁華街とか、電車に揺られて適当な駅で降りて迷わない程度の範囲をぶらつくのがいいかなと思いながら、その繁華街を通り過ぎる。ICカードをピッとして、数分待ってからやってきた三車両の電車に乗り込んだ。
 電車の中は空いていたけれど、ドア横のところにもたれかかって、流れる景色を眺めながら降りる駅を吟味する。電車は山間を縫うように進み、駅に近づくにつれて緑と茶色以外の色が増えていく。どこがいいかなあと少し眠たくなりながら眺めているうちに、三毛猫の三色が目に入った。線路沿いを軽快に歩いていた。ちょうど車内のアナウンスが次の駅名を告げてきたので、わたしは鞄をかけ直した。
 改札をくぐってから、ゆっくり歩きながら辺りを見渡し、けれど見つけたのは三毛猫ではなかった。サバトラ……と言うのだろうか、灰色と黒の縞々で、鼻とお腹のところが白の三色だった。あまり車の通らない道路を横切り、商店街らしいアーケードに入っていく。わたしも彼か彼女かを追って道路を横切り、アーケードの中に足を踏み入れた。三毛猫はほとんどが雌らしいのは聞いたことがあるのだけれど、サバトラがどうなのかはよく知らない。
 中は薄暗く、開いているお店は少ないというほどでもないけれど、それほど多くもなかった。中ほどに小さなスーパーがあり、自転車を止めるための柵に、耳のたれた黒くて大きな犬が繋がれていた。歩いてくサバトラを見送るように首を曲げていたけれど、わたしの足音に気づくと顔を向けてきた。つぶらな瞳がさみしそうで、大人しそうにも思えたので、近づいてそっと手を伸ばした。彼か彼女かは、鼻先でわたしの手を触るくらいで、吠えたり避けたりはしなかった。
 空気が冷たいからか、彼か彼女かも少し冷たかった。ペットの犬猫にぎゅっと抱きつきたい欲望は人並みにある。それを抑えながら黒い毛皮にするすると手を滑らせた。彼か彼女かはずっと大人しくしていた。
 しばらくそうしてから、わたしはサバトラが歩いていったほうに足を向けた。何歩か進んでから振り返ると、つぶらな瞳がわたしのほうに向いていた。サバトラを見送ったときもこんな目をしてのだろうか、と思いながら、そっと手を振った。
 商店街を抜けると、ごく普通の民家が連なる、ごく普通の光景があった。わたしはまたゆっくり歩きながら辺りを見渡し、今度は緑を見つけた。ごく普通の公園の緑だ。
 中くらいの、と言いたくなるような公園で、きっとこの寒さのせいであまり人はいなかった。入り口近くのベンチのそばに、さっきのサバトラが丸まっていた。わたしはそっと公園に入り、そっと近寄り、そっとベンチに腰かけた。サバトラはちらりと目を向けただけで、逃げるようなそぶりはしなかった。ただ、手を伸ばすと嫌がるようなそぶりを見せたので、その手を引っ込め、鞄を横に置いてから、ベンチの背もたれに身体を預けた。
 正面を向くと、少し遠くだけれどお城が望めた。白の壁に緑っぽい瓦。このベンチからだとちょうどよく建物の陰にならずに済んでいるようだった。へー、と特に意味のない声が漏れる。深呼吸するように二回息をついてから、わたしは鞄を開けて、持ってきていたデジカメを取り出した。電源をオンにして遠い正面にレンズを向ける。シャッターを半押しして、自動でピントを合わせたところで、明日合流する連れのことを思い出した。明日、お城の周りを歩き回って、散々写真を撮って、とかするのだろうなと思った。
 別に撮ってもいいのだけど、と思いながら、わたしはそばのサバトラのほうにレンズを向けた。突然妙な機械を向けられたサバトラは、怪訝そうしながら、ニャーと鳴いた。わたしはとりあえず、カシャッとデジカメのシャッター音で返事をした。